3-10「人を死に至らしめるもの。」

 昼休みに入ってからすぐにラーメン梵へ向かうのが一部の営業部社員の恒例になっていたが、この日の僕と麺二郎さんは昼休みの貴重な五分をオフィスビルのエントランス前で費やしていた。麺二郎さん曰く「もう一人来る」とのことだったが、その人物はなかなか姿を現さない。


「どうしちゃったんですかね」

「忙しいって言ってたから、すこし仕事が長引いてるのかもな」

「ちなみに誰を誘ったんですか?」

「あー、そういえば誰なんだろうな。あの人」

「え?」


 僕が間抜けな声を出しながら固まってしまったのは、きっと一般的に見てもおかしなことではなかったはずだ。普通、人は正体不明の他人を昼食に誘わない。


「そういえば昨日の案件、成瀬ちゃんに確認してもらえた?」

「はい、大丈夫でした。ありがとうございます」


 今朝成瀬さんの人差し指にせき止められた契約の件は、就業開始時刻を迎えると同時に確認してもらった。特に大きな問題はなく、すでに総務部はその日のうちに外部への委託を行っていたようだった。


 ちなみに、出勤してからメールボックスを確認すると、そこには桐原からのメールが一件届いていた。内容は「裁判が早く終わりそうだから可能な限り時間を短縮してくれ」というものだった。まだ初期段階につき、この後の進捗は予想がつかない。やはり僕は「善処します」という旨を返信するしかなかった。


「あ、来た」


 麺二郎さんの声につられて視線を上げた先、こちらへ歩いてくる老人の姿を見て僕は先ほどよりもさらに間の抜けた声を発することになった。


 だるまを彷彿とさせる大きな目に、長く伸びきった白髪交じりの髭。間違いない。


「宝城さんですよね、あの人」

「ん? 知り合いか?」


 世間は狭いなあ、と麺二郎さんは笑っているが、社内で宝城開発部長のことを知らないのは彼くらいだろう。


「開発部の部長ですよ! ENT技術を生みだした人です」


 宝城開進はバーチャルヘヴンの現社長とVR関連の会社で働いた経験があり、独立後、ENT技術の確立に携わった名のある人物だ。大学の教科書にも出てくるほど、このVR産業には欠かせない存在となっている。


 麺二郎さんのラーメンによるパーソナルディスタンス消滅術は本当に目を見張るものがある。彼は本当に誰にでも声を掛けるんだなと改めて実感させられた。


「あの、初めまして、営業部の夕陽有里です」


 彼はかなり高い地位にいる人物だ。それに社長との関わりも深い。僕が名乗りを上げると、彼は首から提げた名札をこちらへ掲げた。それが彼なりの自己紹介らしかった。


「じゃあ、行きましょっかあ」


 麺二郎さんがそう言って歩き始めると、宝城開発部長は黙って僕たちの後ろをついてきた。ふたりの間を僕が歩くことになり、なんだか気まずい。


 彼はまだ五十代だったはずだが、何重にも折り重なった顔の皺、それから伸びっぱなしの髭が彼の年齢を十ほど多めに見せている。彼の風貌は「貫禄がある」とも、「放浪人のよう」とも表現することができるだろう。


 ラーメン梵での食事に、宝城開発部長はかなり手慣れている様子だった。勢いよく麺を啜る彼の姿は意外と画になっている。この日の他にも、麺二郎さんとラーメンに来た経験があるのかもしれない。


 僕はひとつ、バーチャルヘヴンの開発者に会ったら訊きたいことがあった。復元された死者は生前の人物と同一と言えるのかどうか。バーチャルヘヴンのなかに身内を持つであろう麺二郎さんの前で訊くのは憚られるため、彼がいなくなるタイミングを窺うことにした。そしてそのタイミングはすぐにやってきた。


「あ、部長から連絡来たから先に出てるわ」

「はい、わかりました」


 麺二郎さんはどんな量を注文しても、必ず僕よりも先に食事を終える。それはこの日も例外ではなかった。幸い、部長からの電話はラーメンを平らげたあとだったようだ。


 麺二郎さんが店を出ていったあと、今度は宝城開発部長に話しかけるタイミングを探ってみる。この数分で寡黙な人であることはわかったが、それがかえって話しかけづらさに直結していた。このままでは埒が明かない。口に含んでいたラーメンを丸ごと飲み込み、「あの」、思い切って声を発してみる。


 ぎょろり。宝城開発部長の巨大なふたつの目が一斉にこちらを向いたので、つい悲鳴が漏れてしまいそうになった。その表情には、成瀬さんとはまた別の威圧感がある。人間的な彼女の圧力とは違い、宝城開発部長の目には、得体の知れなさがあるのだと思う。


「あの、バーチャルヘヴンの開発者に会ったら訊いてみたかったことがあって……」


 宝城開発部長は僕から丼に視線を戻すと、大量の麺を箸で掬い、さきほどのように勢いよく啜った。無視されたのかと思ったが、咀嚼しながらこちらへ視線を戻したため、話の続きを待っているのだとわかった。


「えっと、死者の記憶から復元されたバーチャルヘヴンの住民って、生前と同一の人物だと言えるのでしょうか」


 この話題を麺二郎さんの前で扱う訳にはいかない。宝城開発部長もそれを察してくれたのか、入口を一瞥して、それからまた麺を勢いよく啜ったあと、ようやく口を開いた。


「人間の生死を決めるのは医学でも本人でもましてや、第三者なんかでもない」

「……え?」

「人が人の生を明確に定義することはできない」

「なるほど……?」


 人が人の生を定義することができないなら、同様に死の定義というものもなくなり、生死の判別は効かなくなってしまう。そして明確な定義がなければ、人の生死を決めるのは個人の解釈に委ねられることになるだろう。


 もしかしたら、開発者のそういう考えのもと生まれたバーチャルヘヴンという世界は、彼がいま話したように、人によって解釈が変わるようにできていたのかもしれない。ある人は同一人物であると見なすかもしれないし、桐原のように「記憶を持った人工知能でしかない」と考える場合もある。


 宝城開発部長は水を飲み干し、ゆっくりと立ち上がった。


「あ、あのっ」


 僕が欲しかったのは、そういう抽象的な答えではなかった。もっと明確に、それがただのコンピューターでしかないのか人として扱うべきなのか、自分自身の軸となる回答を持っておきたかった。


「人を死に至らしめる最大の存在が何かわかるか」

「え……?」


 最初に浮かんだのは「病気」で、次に浮かんだのは「環境」だった。次々と浮かんでは泡のように消える単語たちのなかに、しっくりくるものは何もなかった。


「絶望だ」


 絶望、と言葉を復唱してみる。絶望が人を死に至らしめるのは、自殺志願者だけではないのか。当然、事故で即死した人は自分の未来に絶望する間もなく死んでいく。彼なりになにか別の解釈があるのかもしれないが、僕にはそれが全人類共通の死因になるなど考えられなかった。

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