3-9「朝食の目玉焼き。」
夢というのはやっぱり、その内容にかかわらず覚醒時にいい影響を与えることはあり得ないと思う。夢のなかで僕は優菜と同棲していて、ふたり住んでいるアパートの一室に、手を繋いで帰っているところだった。
間もなくたどり着いた部屋で、優菜は「今日は私が料理するから」と言い、僕をリビングへと押し込んだ。キッチンから聞こえてくる油の跳ねる音を聞きながら、僕はきっと、遊園地に連れて行ってもらえる子どものようになっていた。「誕生日おめでとう」、その言葉と一緒に優菜がリビングの扉を開けたとき、意識が次第に輪郭を持ち始めたのがわかった。
優菜との時間が終わってしまうことは悲しかったが、それでいて安心している自分もいた。やっぱり夢は見ないほうがよかった。
「上司を差し置いてこんな時間まで寝ているなんていい度胸じゃないか」
少しずつクリアになっていく聴覚が、到底優菜のものとは思えない威圧的な声を拾った。まだ耳の奥では、油の跳ねる音の余韻が反響している。どういうわけか、料理の香ばしい匂いはたしかに現実味を残していた。
「……あ。おはようございます」
「ああ。おはよう」
目を開いた先にある天井は見慣れない壁紙をしていた。カーペットの上で寝ていたとはいえ、家のベッドに比べたら限りなく床に近い硬度をしている。胸から脚にかけて覆っている掛け布団は、おそらく、成瀬さんがかけてくれたものだろう。
ポケットから携帯を取りだし、時間を確認する。始業まではあと二時間以上の余裕があった。成瀬さんの家からであればゆっくり準備してもまだお釣りがくる。
「で、なぜ私の部屋で夕陽が寝ているんだ?」
「えっ」
「不法侵入は三年以下の懲役または十万円以下の罰金が科せられるらしいが」
「えっ?」
淡々とした口調で刑法を語るこの上司はきっと、酒の飲み過ぎで頭がおかしくなってしまったに違いない。たしかに、あれだけ酒を摂取していれば記憶を飛ばしてしまうのも当然の結果だと言える。成瀬さんはしばらく僕を凝視したあと、「ふっ」と噴きだすみたいに笑った。ベッド周りの酒缶はいつの間にか片付けられていた。
「冗談だ。状況を見れば大体何が起きたのかは察しがつく」
「よかったです。通報されたらどうしようかと思いました」
「私がせっかく会社に置いて帰った社用携帯を、なんともお節介なことに、使いっ走りの夕陽がわざわざ届けに来てくれたんだろう?」
「ひとこと……ふたことくらい余計です」
成瀬さんは「あはは」と明るい声で笑ったあと、そのままキッチンのほうへと歩いていき、「世話になったな」と独りごとみたいに言った。彼女の瞳は、朝日に照らされているせいか、昨日見たよりもずっと明るい茶色をしていた。
「机を片付けろ。朝食にする」
「はい」
ベッド周りが片付いたとはいえ、部屋が散らかっていることには変わらない。まんなかを陣取っているローテーブルがきっと食事用の机なのだろう。なんとなく、成瀬さんはダイニングテーブルに着いてトーストと紅茶を啜っているイメージがあったので、ハムエッグと野菜サラダが出てきたときはイメージとの相違に親近感が湧いてきた。彼女も一応、ちゃんと人間だったらしい。ちなみに僕の朝食は大豆バーか惣菜パンなので、彼女のほうがよっぽど人道的な生活をしていると言える。
「いただきます」
禍々しいラーメンのスープに溶かしながら食べる味玉子も美味しいが、朝食の目玉焼きにしかない魅力というのがたしかに存在している。質素な食事でしか満たせない温かみがあるのだと思う。
「あ、そういえば、昨日の契約の――」
桐原との契約のことを話そうとした僕の口は、彼女がそっと突きだした人差し指により身動きが取れなくなった。「勤務時間外だ」、得意げな笑顔で成瀬さんが言う。恥ずかしいとか動揺とかよりも先に、あ、現実でこんなことする人いるんだ、と思った。
食事のあと、「お皿くらい洗います」と訴えたが、彼女には「早く風呂に入れ」と言われてしまった。世話をしてやったとはいえ、上司にこれほど身の回りのことをしてもらうのは申し訳ない。風呂から上がったあとにお礼を言うと、これで借りはなしだと返された。
ドライヤーで髪を乾かしているとき、ふとリビングへ視線を送ると、昨夜は床に放置されていたバーチャルヘヴン没入用の機器が棚に収納されているのが見えた。「お前がアイツに似てるのも悪い」という成瀬さんの言葉は、聞こえなかったフリをした。
準備を終えるころには意外と時間が迫ってきていて、僕たちは彼女が普段使っている道をふたり並んで通勤した。途中で他の社員に遭遇しないかという僕の不安は杞憂だったようで、駅を降りてからも知り合いに会うことはなかった。それもそうだ。成瀬さんはいつも最後に出勤してくる。
「行かないで」と言ったときの、あの切ない声を思いだすと心が刺されたようになる。成瀬さんは気に留めていないのかそもそも覚えていないのか、普段と変わった様子はなかった。
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