3-8「どうか、もう一度だけ。」
成瀬さんは突然立ち上がり、キッチンのほうへ向かったかと思えばおもむろに冷蔵庫から五〇〇ミリリットルの酒缶をふたつ取りだし、再びベッドで横になった。プルタブを引く小気味よい音が、暗い部屋でやけに目立って聞こえる。片方を手渡されることを危惧していたが、そちらは彼女の二本目として準備されたものだったらしい。
「飲み過ぎですよ」
「酒は人を救うんだよ」
成瀬さんがサイドテーブルに置いた酒缶は、一度口を付けただけとは思えないほど軽い音を立てた。彼女がどれほど酒に強いのかは知らないが、床に転がった酒缶から考えて相当な量を飲んでいるはずだ。
「酒は私だけを救っていればいい」
「どういうことですか。僕はもう帰ります。飲み過ぎないようにしてくださいね」
体調が悪い彼女を看病することも予期していたが、この量の酒を飲めるくらいであれば問題ないだろう。傍らに転がっていたスーパーのビニール袋に空き缶を詰め込み、サイドテーブルの脚の下に転がしておく。他のゴミを片付ける気にはなれなかった。手を付ければ朝日が昇ってしまうかもしれない。
明日も朝から仕事だ。成瀬さんがもう一日休暇を取るにしても僕は出勤しなければならない。「お邪魔しました」、そう言って彼女に背を向ける。
「私は縋ってなんかいない」
「はい?」
「縋ってなんかいないと言ってるんだ」
「なんの話ですか」
成瀬さんはいつの間にかうつ伏せの体勢になっていた。めくれ上がったキャミソールの隙間から、これまで一度も日焼けを経験していないような、真っ白な肌が覗いている。カーテンの隙間から、満月の鋭い光が差し込んでいた。
「私はアイツが死んだことを理解して、受け入れている。受け入れた上で、息抜き程度にバーチャルヘヴンを使っているだけだ」
枕に顔を埋めた状態で話すので、彼女の籠もったような声を言葉として受け取るまで、少しのタイムラグがある。僕が返事を考えている間、彼女は身動きひとつ取らなかった。ちゃんと呼吸できているのか心配になってくる。
「……そうですか。でも、精神的に参ってるときは使わないほうがいいのかもしれませんね」
「夕陽は前に『バーチャルヘヴンの住民と生前の人間にはどんな違いがあるのか』と訊いてきたな。どうしてその考えに至ったのかはわからないし興味もないが、残された人間にとって本人かどうかなんて大した問題じゃない」
ゆっくりと枕から顔を浮かせ、すうっと音を立てて息を吸い込んだあと、成瀬さんは再び口を開いた。
「本人かどうかはわからなくても、救われているならそれでいいじゃないか。生きてたころと同じ声で同じ笑顔で、名前を呼んでくれたらそれでいいのに。私は満足だった。それなのに、なんで」
成瀬さんの言葉はそこで止まった。
もし過去に戻れるのだとしたら、僕は間違いなくそのときの自分を殴り飛ばすだろう。この会社には大切な人を亡くした人が多い。桐原もそう言っていたじゃないか。どうして僕は、成瀬さんがそのひとりでないと当然のように思ってしまっていたのだろう。
「交通事故だった」
「……交通、事故」
「酒に酔った馬鹿の車にアイツは殺された。私の知らないところで」
この瞬間、僕はたしかに成瀬さんと自分を重ねていた。優菜が死んだと聞かされたとき、最初に僕は何を思ったんだっけ。
「夜ごはんを作って待ってた。それなのにアイツは『上司と飲んで帰る』なんて連絡をよこすから、『ふざけんな』って言って電話を切ってやったんだ。そしたらさ、事故で死んでんの」
声は薄暗い空間で透き通って聞こえた。言葉が重なるごとに、成瀬さんの声はどんどん震えを帯びていく。
「死んだとき、ケーキを持っていたんだと。近所の、私が好きなケーキ屋の。その店に寄らなければ死なずに済んだのに」
悲しくてどうしようもないできごとは、その重さをぐっと飲み込んでしまうより、距離を置いて忘れるほうがずっと楽だった。ひとつの大きな致命傷を受けるより、何年にもわたってかすり傷を付けられるほうが一瞬の痛みは少ない。
成瀬さんは僕と同様に、決して変えることのできない過去をそれでも悔やんでいるようだった。取り返しがつかない現実の、上手な受け入れ方はいつまで経ってもわからない。
「あれくらい許してやればよかった。なんでそんなに小さなことで怒ってしまったんだろう」
月明かりは眩しくて、よく目に沁みた。わずかにできたカーテンの隙間から、水が漏れだすみたいに光が入り込んでくる。エアコンの設定温度は低かった。身体の芯が震えているような気がした。
「……成瀬さんは、よくやってると思います」
「夕陽に何がわかるんだ。いつまでも幼馴染の死から目を逸らし続けて。私は自分の罪も含めて受け入れようとしてる。受け入れようとしてるのに」
その声は僕を責めているというより、かなしみを吐きだすための性質をしているように思えた。その言葉に何も返せなかった。充電完了の通知が表示された成瀬さんの携帯は、やはり恋人との写真が設定されたままだった。
面倒なことを後回しにし続けて、いつの間にか自分が何をするべきなのか、どう向き合うべきなのかわからなくなっていた。
「成瀬さん、僕は――」
「熊谷優菜だろう。かわいい女の子だった」
「え」
なぜ優菜のことを知っている。経歴を調べられたのだろうか。大切な人を失った人が多いという噂。不採用とされたはずの僕がバーチャルヘヴンで働いている理由。採用の基準のひとつがそれだったという可能性は。非現実的だ。ではどこで成瀬さんは優菜のことを知ったのだろう。
「……私も、あの子みたいに、可愛らしい女の子になりたかった」
次々と脳に浮かんできていた疑問たちは、成瀬さんの震えた声を聞き、一瞬で姿を消してしまった。
「もっと素直でいられたらよかったのに」
月明かりは、壁の棚に並んだぬいぐるみたちを照らしていた。ちいさい女の子が好きそうな、かわいらしいキャラクターたちがじっと成瀬さんのベッドを見下ろしている。僕は訳もわからず悲しい気持ちになって、光が乗ったまま伏せられた彼女の瞳から目を逸らすことができなくなっていた。
「……嫌になる。こんな自分」
光は目に薄い膜を作るだけで、地面に落下することはなかった。艶のある長い黒髪と幅の広い二重はやっぱり優菜に似ていた。誰かが死ぬということは、朝の眠気と同じようなことなのだと思う。一気に起き上がらないと眠気を断ち切るのは難しい。
心を動かすためには途方もないエネルギーが必要だった。いつか優菜の死を断ち切るために体力をできるだけ節約したくて、普段から味気のないものばかりを摂取しようとしている。話題の映画も人気の漫画も、心を動かされるのが嫌であまり触れてこなかった。
「う……。気持ち悪い……」
「薬、買ってきます」
逃げだしてしまいたい気持ちに駆られていた。理由を付けて家を出ることができて好都合だった。彼女に掛けるべき言葉は、頭のなかの、どの引き出しにも入っていなかった。
近くの薬局で二日酔い防止の薬とヨーグルト、それから一応風邪薬を購入し、僕は再び成瀬さんの部屋の扉を開けた。できるだけこの部屋から離れていたかったのに、こういうときに限って体感時間が短いから困る。彼女の部屋はやはりフローラルな香りがした。
「薬、買ってきました。置いておきますね」
んん、とうめき声にも聞こえるような音を成瀬さんは出した。先ほど成瀬さんが取りだしてきた二本の酒缶はサイドテーブルに横たわっていて、何かの拍子に倒したのかと思ったら、すでにふたつとも中身を失ったあとだった。
「また飲んだんですか? ……本当に死んじゃいますよ」
「いいよ別に。もういい」
成瀬さんは今にもとろけてしまいそうな顔をしていた。据わった彼女の瞳は、よく見ると薄い茶色をしている。目の形は似ているのに、そこは優菜と違う部分だった。
「……僕は帰りますから。もうお酒は飲まないでくださいね。お大事にしてください」
それだけ言って、彼女に背を向ける。この様子では僕が出ていったあとに鍵を閉めることはできなさそうだった。鍵は借りることにして、次に会ったときに返そう。きっと合鍵があるはずだ。
足の踏み場を確認して、それから引かれた後ろ髪を断ち切るように一歩を踏みだしたとき、くいっと身体が後ろに傾くのがわかった。成瀬さんが僕の右手を掴んでいた。
「行かないで」
部屋の外も内も、夜に相応しい静けさをしていた。周りで動いている物はひとつもなくて、心臓の、激しく鼓動を刻み続ける音だけが視覚化されたみたいに鮮明だった。
「え」
彼女の手は冷え切っていた。身体の芯の部分からどんどん熱を吸い取られていく。それなのに、奪われたそばから熱が生産されていくのがわかった。腕が引っ張られて、つい後ろに一歩後退してしまった側から、今度は腰に温かい感触が巻き付いていく。
「あの、成瀬さん」
腰の辺り、彼女が顔を埋めていた。心に浮かぶのは、口に出せば取り返しがつかなくなりそうな感情ばかりだった。同情とかよりもっと業の深い、愛おしさのような塊が喉の辺りまで上昇している。言語化される前の様々な感情たちは腹の底に溜まり、音を得るよりも先に死んだ。しばらくして、横隔膜の下にあった感情の気配が、優菜への後ろめたさであると気づいた。
「行かないでよ、要……っ」
自分が、何かを言うために口を開いたのがわかった。開けっ放しのまま、自分が何を言おうとしたか思いだせずにいる。足元に、「石川要」と書かれた未開封の封筒が落っこちていた。何かの請求なのか通知書なのか、この暗い部屋では判別が付かなかった。心臓の音はもう聞こえなかった。成瀬さんの嗚咽だけが部屋の空気をまるごと揺らしていた。
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