3-7「有給の残骸。」
満員電車というのはどうしてこうも吐き気を刺激してくるのだろう。すこし残業をしてから出たこともあって、時刻は十九時、ちょうど退勤ラッシュの時間帯に噛み合ってしまった。力士のような体積のサラリーマンに押しつぶされながら、麺二郎さんと部長の言葉を思いだす。
「部長が成瀬ちゃんに大事な連絡送ったって言ってたんだよな……。部長、どうします?」
「うーん、私用の携帯電話のほうに掛けてみようか……」
「どうせ電話、出ないんじゃないですか?」
「いやあ、そうだね……。でも、電話には絶対に出ないけど、たぶんメッセージには目を通しているんだと思う。社長が送った重要な用件には返事が来るらしいから。私の連絡には返信しないんだけどね」
部長が困ったように言ってから、麺二郎さんが「夕陽に届けてもらうのは?」という結論を出すまでは早かった。彼の提案を承諾したのは、「ラーメン奢るから」という言葉の魅力より、本契約の際に受けた恩を返すという意味合いのほうが強かった。
成瀬さんが住むマンションは、以前彼女が話していたとおり、駅のロータリーを抜けてすぐの場所にあった。部長の話によれば、彼女はここの二階、階段とは反対側の角部屋に住んでいるらしい。成瀬さんはよく社用携帯を置き忘れるため、重要な連絡があるときに備えて、営業部の社員のほとんどが彼女の家を把握しているようだった。ここまでくると本当に置き忘れなのかも怪しい。
ロビーを通って階段を上がり、薄暗い照明に照らされた廊下をゆっくりと進んでいく。途中の階段は最後の段差だけすこし高くて、危うく派手に転倒してしまうところだった。
ここ最近の成瀬さんは疲れが取れていない様子だった。有休を取ったこの日くらいはしっかり休んでほしかったが、緊急の連絡があるというなら仕方がない。もし訪問したことを怒られたら、「部長に脅されました」とでも言おう。
他人の家のインターホンを押すのは何年ぶりだろう。高校、大学と人の家を訪ねることはなかったから、中学生のときに優菜の家に行って以来かもしれない。上司とはいえ、異性の家に行くのもそのときぶりだ。そう考えていると、緊張がいっそう高まっていった。
意を決して手を伸ばしたインターホンからは想像以上に大きな音がするから驚く。一度目は返事がなくて、しばらく待ってから鳴らした二度目にも反応はなく、三度目を押して出てこなかったら諦めようとボタンに手を掛けたとき、「なんだ」、部屋が爆発したのではないかと思うほどの勢いで扉が開放された。勢い余って押してしまったインターホンの、甲高い電子音が間抜けに空中を漂っている。
「……あ、えっと、お疲れさまです」
成瀬さんは黒いキャミソールに黒いショートパンツという、引きこもりの夜を体現したかのような服装をしていた。僕の挨拶を聞いても、彼女は眉間に皺を寄せたまま動く気配はない。しばらくその皺に気圧されていて、僕が用件を思いだして口を開きかけたとき、「入れ」、成瀬さんはそれだけ言って部屋の奥へと消えていってしまった。「え、ちょっと」、慌てて紡いだ言葉が、誰もいなくなった玄関にぽとりと落下する。
突然の訪問だったにもかかわらず、成瀬さんの部屋はそこそこの落ち着きを見せていた。彼女のベッド周辺以外は。
おびただしい量の酒缶とつまみの痕跡、それから紙パックのジュースなど、様々な残骸たちがサイドテーブルどころかカーペットの床にまで散らばっている。もしかしたら、部屋が暗いから綺麗に見えていただけで、案外他の場所も似たような惨状をしているのかもしれない。それはそうと、成瀬さんの部屋はフローラルな香りがした。
「体調悪いのにお酒飲んだんですか?」
「体調が悪いなんてひとことも言っていない」
「え、じゃあなんで休んだんですか」
「体調が悪くなければ有休を使っちゃいけないのか? いいか、有給は社員たちに与えられるべき権利の一つと言える。それを私がいつ、どう使おうとも他人に関係のない話だ」
だからといって本契約の案件が入っている日に使わなくてもいいじゃないか。そう言おうとして辞めた。余計なことを言えば抜け毛が増えそうなことを返されそうだし、何より枕元に体温計が転がっているのが見えたので、体調が悪いというのは本当だったのだろう。そんなときに酒を飲むのはどうかと思うが。
「成瀬さん、社用携帯忘れましたよね?」
「ああ」
彼女はこうして届けられることに慣れているのか、ベッドに寝そべったまま、促すようにこちらへ手を伸ばすだけだった。バッグから携帯を取りだし、彼女の手にそっと乗っけてやる。ベッドがエアコンの真下にあるせいなのか、わずかに触れた彼女の指先は氷のように冷え切っていた。
「部長が大切な連絡を送ったそうです」
「そうか」
成瀬さんは仰向けに寝そべった状態で画面を操作し、数秒もしないうちに携帯を枕元へ放り投げてしまった。こんな部下を持ってしまった部長には同情せずにいられない。
ベッドから滑り落ちた携帯は画面を上にしたままカーペットを滑走し、数センチメートル先でぴたりと停止した。画面から放出された光は、間接照明のように辺りを照らしている。明るさの上がった部屋の片隅、充電器やらパソコンやらのコードで入り組んだ床で、あるものが目に留まった。
「……え、これ」
コード類とヘッドホンといくらかのゴミに擬態しているみたいに、見覚えのあるゴーグルが転がっていた。電源は付いたままになっている。僕の狼狽に気づいたのか、成瀬さんは上体だけを浮かせてこちらへ視線を送っていた。
「別に珍しいものでもないだろう」
「え、はい、そうですよね。えっと、その、ご家族とか、ですか……?」
「恋人だよ」
自分の息を呑む音を聞いたのは初めてだった。心臓の奥のほうが、きゅっと締め付けられたようになっている。恋人に会うために毎日定時で上がっている、という考えは正しかった。ただひとつ予想外だったのは、その人がもうこの世にはいないということだけだった。
からん。金属の乾いた音がしたかと思えば、次の瞬間に成瀬さんは酒を煽り、勢いよく缶を机に置いた。
「今日、会ってきたんですか?」
「別に。命日だったから様子を見てきただけだ」
唐突に、あ、もしかしてと思った。成瀬さんが最近疲れている様子だったのは、夜の間にバーチャルヘヴンへチェックインしているからだったのかもしれない。僕は選択を間違えてしまっていた。あの帰り道、「バーチャルヘヴンの住民と生前の人物にはどんな違いがあるのか」と訊いてしまったことはどう考えても失敗だった。
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