3-6「本日は欠勤します。」

「あれ、成瀬さんは?」


 その日は就業開始の時刻が過ぎても、隣のデスクに成瀬さんが現われることはなかった。今朝は珍しくニュースに目を通してみたが、電車が遅延しているなどの情報は出ていなかったはずだ。なにより、他の電車通勤組はみんな時刻どおりに出勤している。


「成瀬ちゃんは今日休みだよ」

「ええっ」


 麺二郎さんがそう言うのを聞いて、自分でも驚くほどの大声が出てしまった。「体調不良だって」、あとから追加された言葉が耳に入り、また大きな声が出てしまいそうになる。


「え、今日、本契約の案件入ってるんですけど……」


 この日は桐原との契約の予定が入っていたはずだ。成瀬さんにその予定を確認するつもりだたのに、そもそも休みだと聞かされれば驚きのあまり大きな声が出てしまうのも仕方がない。


 この会社では原則、面談からサブスクリプションに至るまで、同じ社員が対応することになっている。依頼人との齟齬をできるだけなくすためだ。桐原の担当は僕と成瀬さんになっている。原則に従うのであれば、この日は僕ひとりの力で契約手続きを行うことになるだろう。もちろん、これまでひとりで契約なんてしたことがない。


「ああ、その案件は俺がサポートに入るよ」

「わあーありがとうございます……」


 きっと僕はこの瞬間、神に縋るような視線を送っていたはずだ。麺二郎さんは「あはは」と気の抜けた声で笑っていた。


 契約の更新にはこれまで何度か立ち会ってきたが、本契約の場面を見たのは山中夫婦の一件だけだ。成瀬さんほどの歴を持たないとは言え、麺二郎さんのようなベテランが付いてくれるのは本当に心強い。契約というのはわずか数十分で大金が動く場面だ。新人たったひとりに任せるわけにはいかなかったのだろう。


 この日の午前中はひとりで雑務をこなして、昼になると麺二郎さん他数人でラーメン梵へ足を運んだ。五十のおじさん相手に気を遣う必要はなかったかもしれないが、一応、ニンニクのトッピングはやめておいた。麺二郎さんは「少なめ」で注文していた。


 契約は、見積もりの再確認、書類の記入、利用規約の確認、そして最後に署名をもらうという流れになっている。予定の一時間前から僕は、画面に穴を開けるつもりでマニュアルを見返していた。今回は麺二郎さんのサポートもある。細かい内容は麺二郎さんが請け負ってくれることになった。


 途中で言葉を詰まらせたり躓いたりしながらも、僕はなんとか契約の流れを再現することができた。これに関してはほとんど麺二郎さんのサポートがあったおかげだと言っていい。彼は僕のためにこっそり次に確認する書類を差しだしてくれるなど、的確なサポートをしてくれた。


「以上が利用規約の内容になります。以前説明したとおり、バーチャルヘヴンへ桐原様をご案内するまで一ヶ月ほどのお時間をいただきます。ご不明点などございますか?」


 いつかの喫煙所で、勢い余って彼のことを「桐原さん」と呼んでしまったことがあるため、いまこうして「桐原様」という丁寧な言葉を使うことに違和感を抱くことになった。彼は大して気に留めていないのか、「大丈夫だ」と低い声で言うだけだった。彼は成瀬さんの不在についても言及しなかったし、案外、細かいことは気にしない主義なのかもしれない。


「今回の事件の裁判は、おそらく今週中に終わるだろうな。判決が出るまでに二週間、そして判決が出てから控訴までの締切は、これまた二週間だ」

「あ、はい」

「俺の言いてえことがわかるか?」

「えっと、なんですか?」


 以前と同じように、桐原は僕と麺二郎さんを舐め回すように見たあと、一気にペットボトルのお茶を飲み、それから背もたれに寄りかかった。お茶は、ラベルの下まで減っていた。


「いいか? 被害者が復元されてから俺に残された猶予は一週間しかねえってことになる。これじゃあ充分な捜査をするには短すぎるんだ。できるだけ早く準備しろ」


 ENT技術による復元は、バーチャルヘヴンの社内だけで完了するほど簡単なものではない。ここには外部の業者に委託する工程がいくつか必要になってくる。だから桐原が想像するような時間短縮をできるとは到底思えないが、彼の力強い視線を受けて、僕は、「善処します」と言うしかなかった。


 桐原はその言葉に返事をせず、僕の手から乱暴に契約書を奪い取ると、署名欄に「桐原利運」と記入した。手つきの割には綺麗な字だった。


 僕はできるだけ早く桐原を帰してしまいたかった。桐原が余計なことを言う前に、麺二郎さんとの対面を終わらせなければならない。


 あの日、桐原は「仮想空間のヤツらが人間だとでも思ってんのか?」と言った。成瀬さん同様、麺二郎さんはバーチャルヘヴンの死者たちを生前と同一の人物だと考えているかもしれない。もし彼が復元された死者を心の拠り所にしていたら、それが真実かどうかに関わらず、桐原のひとことで大きく傷ついてしまうこともあり得るだろう。


 僕自身は未だに答えを出せていなかった。別人だと捉えてしまったら、いやそもそも彼らの言動が人工知能の電子処理でしかないと捉えてしまったら、これから受け持つであろう依頼人たちを相手にどのような顔をしてしまうかわからない。遺された者から死者への思いなんて聞いてしまえばきっと足がすくんでしまうだろう。やっぱり僕は思考を放棄するしかなかった。


 僕の心配とは裏腹に、桐原との契約はその後すぐに終わった。この書類たちを総務部に提出すればこの日やるべき仕事は完了する。提出の場所を訊いてみたところ、「俺が案内するよ」と麺二郎さんが付いてきてくれることになった。なんだか甘えてしまったみたいで申し訳ない。


「今日の内容って、一応成瀬さんに報告したほうがいいですよね?」

「ああ、そうだな。一応、な」


 麺二郎さんは僕が強調した「一応」に反応し、笑いながらそう答えてくれた。成瀬さんは休日でも平日でも、勤務時間外の連絡には一切返信をしない。電話をかけてもきっと出ることはないだろう。どうせ今日も返信は来ない。麺二郎さんのなかにも共通の解釈があったことがなんとなく嬉しかった。


 書類を渡してオフィスに戻ってきたとき、「あ」と麺二郎さんが何かに気づいたように立ち止まった。


「どうしたんですか?」

「成瀬ちゃん、社用携帯置き忘れてんじゃん」

「うわー」


 どうせ出ないなら所持していなくても関係ないと考えたのかもしれないが、これではなんのためにこの物体が「携帯電話」として生まれてきたのかがわからない。携帯してもらえない携帯電話は携帯電話って呼べるんでしょうかねーと軽口を叩いてみる。僕にとっては完全な他人事だった。だって、まさか成瀬さんの家に届けることになるなんて思ってもみなかった。


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