3-5「今週5回目。」

 仕事に関係することではあるが、オフィスで資格の勉強をするべきではない、と思う。隣の席で鬼のような上司が見張っているのであれば、グレーなことには触れないほうが人生をより有意義なことに使える。


 彼女は定時を迎えると必ず僕に帰るよう促してくるので、成瀬さんが帰ったあとに勉強することもできない。多くの社員は残業してから帰るが、彼女はひとつの例外もなくやるべき業務をその日のうちに終わらせてしまうのだ。その効率の良さは見習いたい。


 僕が他の社員と違うのは教育係に成瀬さんがついていることであり、そして成瀬さんが他の社員と違うのは何があっても定時で帰るということだった。


 以前、成瀬さんにどうして定時で帰るのかを訊いたことがある。その際に得られたのは「定時だからだが?」という、確かに当然そうではあるのだけど、疑問をすっきり洗い流すには至らない微妙な回答だった。僕が聞きたかったのは彼女が定時帰りにそれほど執着している理由だったのだが、それ以上踏み込んだら何を言われるかわからないのでやめておいた。


 成瀬さんは絶対にミスをしない。その上仕事の処理速度が尋常じゃないため、毎日定時に帰るというある意味神がかりな芸当をこなせてしまっているのだ。


 ちなみに彼女は、一切間違いを起こさない理由を「絶対に何があっても他人に頭を下げたくないから」と語っていた。加えて、「他人のせいで頭を下げるのはもっと嫌だから夕陽も絶対にミスをするな」とも。あの鋭い視線に当てられて「はい」と答えてしまったことは記憶に新しい。仕事の出来を上げるためには知識を蓄える必要があり、知識を蓄えるためには資格の勉強をする必要があった。


「お客さーん、間もなく閉店ですよーって何度言えばわかるんだ早く帰れ今週何回目だと思ってんだばか」


 だからこのように、唯が息継ぎをする間も惜しんで怒声を上げる日々が続いてしまうことも仕方のないことだと言える。


 唯はいつものようにコーヒーカップの水気を拭き取りながら、じっと僕に鋭い視線を送り続けていた。あの視線がもう一段階鋭くなる前に、僕はカウンターに散らばった参考書や筆記用具などをバッグに収めきらないといけない。


「ねえ、唯」

「早く帰れ。あんたも」


 この日もカフェに残っているのは、僕と、端っこのテーブルで小説を読むツインテールの少女だけだった。束ねられた黒髪とそこから覗く無数のピアスたち、そしてピンク色のインナーカラーという見た目から、かなり僕と近い年齢をしていることが窺える。


 少女はいつもどおり無言で立ち上がり、それから唯に現金を手渡すと、何も言わずに店を出ていってしまった。


「唯」

「早く帰れって」

「ENT技術で仮想空間に蘇った人って、生前と同一の人間って見なしていいのかな」

「……変な哲学書でも読んだ?」


 唯は最後のカップを拭き終えたのか、いつの間にか食器たちをキッチンの棚に戻し始めていた。「いまに始まったことじゃないでしょ」、微かにそう呟いたのが聞こえた。


 唯の言うとおり、この議論は今に始まったことではない。ENT技術が確立したころ、それが本人と同一なのかという論争が激化した。結局はコンピューターとしての枠組みに収められることになったが、それを法整備に対する妥協だと捉えている者たちもいた。たしかに蘇った死者にまで基本的人権を認めればそれに関する法律の整備が膨大なものになってしまうだろう。


 結局、彼らが生前と同一の人間なのか、その判断は個人にある程度委ねられることになった。この技術の開発に携わった宝城開進という男は、どうやらそれを望んでいたような節がある。


 彼は現在、株式会社バーチャルヘヴンの開発部で働いている。開発当時のインタビューで、彼は「死の定義は観測する人間によって異なる」「肉体の死は人間の本質的な死ではないという考えもある」等、曖昧な表現ばかりを使用した。彼はそのインタビューで、一度も自分の考えを話さなかった。


 僕も最初はただの人工知能だと思っていた。しかし、彼らをコンピューター的な処理だけの存在だと表現するなら、人間の思考だって電子的な処理を行うだけの存在だと言える。


 桐原が言ったことを、そのまま飲み込むことはできなかった。他の社員たちは死者のことをどう捉えているのだろうか。


 * * * * *


 時計の表示が「五九」を終えた瞬間、成瀬さんはそれまで行っていたパソコン作業をぴたりと止め、「定時だ」と言って立ち上がった。僕はそれに返事をして、それまで触れていたキーボードから指を上げる。上書き保存をしてパソコンを閉じるころにはすでに、成瀬さんの準備が終わっていた。


「あ、僕も今日は駅まで行きます」

「一緒に向かうつもりなら早く帰りの支度をしろ」


 この日持っていた現金は、昼間に行ったラーメン屋でほとんど使い果たしてしまった。東京にいたころは生活費の大体をクレジットカードに任せていたが、都会と田舎のちょうど中間からいつまで経っても抜けだせないこの街で、クレジット払いを採用している店はそう多くない。そのため、たまに駅前の銀行へ足を運び、いくらか現金を下ろしておく必要があるのだ。


 ラーメン梵も喫茶ナカムラもクレジットカードを使用できない。いつまで経っても発展しないこの街を体現しているとも言える。これを唯に言えばきっと喫茶ナカムラに入れてもらえなくなるだろうから、僕は口を噤むしかなかった。


 会社のビルを出たとき、ふわり、湿った空気の、夏の夜に相応しい匂いがした。日はまだ沈んでいないものの、夜の匂いというのは空が暗くなるもっと前から姿を現すものである。それはこの日も例外ではなかった。


 大学の同級生はごく一部しか共感してくれなかったが、夏の、夜がのんびりと近づいてくるこの匂いが僕は好きだった。わかってくれた人たちはきっと、この街と同じ中途半端な土地に住んでいた者か、もしくは建築物よりも田畑のほうが多い完全な田舎の出身者だったのだろう。


「暑いな」

「そうですね。さすがに真夏って感じです」


 成瀬さんの家は、ここから二駅先のところにあるらしい。駅から徒歩で三分の、オートロックでシャッター付きの1Kだそうだ。


 僕の家は駅とは逆方向に位置しているため、こうして成瀬さんと外を歩くのは久しぶりだった。先月末、ふたりで飲みに行って以来だろう。


「痛っ」

「え、大丈夫ですか」


 成瀬さんは、歩道に足を踏み入れたとき、わずかな段差にヒールの先を引っかけてしまったようだった。特に大きく転倒するわけでもなく、「問題ない」、成瀬さんは淡々とした口調で言う。振り返って確認してみても、段差は足を引っかけるほどの高さではなかった。


「最近疲れてるんじゃないですか」

「私が? あり得ない」

「でも、たまに眠そうな顔してますよ」


 ここ最近、成瀬さんの表情に疲労がちらつくときがある。こうして軽く躓くことが増えたし、少し前なんか書類の切り取り線をホチキスで挟み、首を傾げていることもあった。


「私は毎日定時で帰ってるんだ。疲れが溜まるなんてあり得ない」

「それは、まあそうかもしれないですけど」


 僕たちの横を、ランドセルの少年たちが駆け抜けていく。小中学生や高校生はすでに夏休みを迎えているようだった。そして間もなくお盆もやってくる。その影響もあってか、会社に来る依頼の数は、先月に比べて二倍近くにも跳ね上がっていた。


 もちろん僕たちの仕事は依頼人とバーチャルヘヴンを繋ぐことだけではない。現在の利用者との連絡や委託業者関連の伝票のやりとり、他にも雑務と呼べる仕事がたくさんある。


 お盆休みが近づいていることにより、委託先の企業も休暇を取ることが多く、連絡が滞っているのも成瀬さんに疲労を与える原因の一つだろう。あとは、それなりに世話を焼かせる部下の存在とか。この前提出した報告書の不備を、一緒になって直してくれたことは本当に申し訳なく思っている。


 すぐ近くでセミの声がして、視線を巡らせてみた先、電柱のごく低い位置にアブラゼミが止まっているのが見えた。セミが驚いて飛ばないよう、慎重に横を通り過ぎる。電柱を通り過ぎたとき、その反対側に別のセミを見つけた。そっちのセミは鳴いていなかった。


 彼らが鳴くのはメスを見つけるためだと、どこかで聞いたことがある。あれほど近くにいるのに気づいてもらえないセミを、なんだか可哀相だと思った。


「ねえ、成瀬さん」

「なんだ」

「バーチャルヘヴンの住民って、生前の人物とどんな違いがあるんですかね」

「……違い?」


 肌をそっと撫でる程度の風が吹いていた。風は湿気を帯びてやってくるため、清涼感を得るにはほど遠い。吐きだす息のほうがまだ涼しく感じる。


 電柱の影が道の両端を繋いでいて、そのちょうどまんなか、道路の凹凸に合わせて歪んでいた。二本の長い影の間で、今にも日光に混ざってしまいそうな電線の、糸のような影が微かな風に揺られている。


「……いや、違いなんてないか、はは」


 一瞬だけ強い風が吹いて、僕の場を誤魔化すための笑いを攫っていったあと、電線の影は波を打つみたいに揺れた。成瀬さんは振り向いて目を細めたあと、少しだけ不満そうな顔をして、「当然だろう?」と言った。


「……ですよね」


 道の向こうから髪の長い女性が歩いてきて、逆光でちょうど輪郭しか見えなくなったとき、もしかしたら成瀬さんのドッペルゲンガーかもしれないと思った。太陽は夕焼けと昼間の、両方の属性を帯びていた。あと数分したらきっと、夕焼け色のほうに傾くのだと思う。


 さっき女性とすれ違うとき、成瀬さんとは全く重ならなかった。背の高さも髪の質感も、目の形も何もかもが違っていた。成瀬さんの手には社用ではない携帯が握られていて、僕の視界の範囲に入ったとき、ちょうど誰かからのメッセージを通知した。ロック画面には、成瀬さんと知らない男が、仲良さげに並んでいた。初めて見る笑顔をしていた。優菜もよくこんな風に笑っていたな、と思った。


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