3-2「お昼の時間。」
その日の昼休み、僕は麺二郎さんが「夕陽、ラーメン行かないか?」と誘ってくる瞬間をずっと待っていた。
「はいっ、行きます!」
つい語尾が強まってしまって、麺二郎さんに目を丸くされてしまったのを誤魔化すみたいに急いで席を立ち上がる。周囲を見回してみても、他に誘われている人はいないようだ。
今日の昼食のお供に、麺二郎さん以上の適任はいなかった。自ら誘う勇気はもちろんなかったので、こうして彼が声をかけてくれたことは本当にありがたい。なんとなく、麺二郎さんなら誘ってくれるような気がしていた。
「いつものところでいい?」
「もちろんです」
海の日が過ぎると、太陽はその瞬間を狙っていたかのように陽射しの強度を上げた。日焼け止めなしでは肌が焼けただれてしまいそうなほどだ。麺二郎さんには日焼け止めを塗る習慣がないのか、社員のなかでもみるみるうちに肌を黒くしていった。半袖シャツから覗く日焼けの境界は、いまこの瞬間もコントラストを上げていることだろう。
ラーメン梵の店内はほとんど冷房が機能していないようだった。行列の先に涼しい空間があると信じている人がいたのだとしたら浮かばれない。
キッチンでは絶えず麺が茹でられているせいで、カウンター席はサウナを思わせる圧倒的な熱量をしていた。いま冷房が効いた部屋に入れば、自律神経がちょうど整ってしまうかもしれない。たまに巡ってくる首振り扇風機の風と、グラスに付着したわずかな結露が数少ない癒しだった。
「麺二郎さんって、結構誰でも誘いますよね」
以前僕は、麺二郎さんが仏像のような顔をした老人とラーメン屋にいるのを見かけたことがある。あとから聞いた噂によるとそれは社内のお偉いさんだったようで、一時期オフィスのなかで話題になっていた。
「うーんまあ、そうだね。暇そうな人がいたら誘うかなあ、大体。誰かと食べたほうがラーメンは旨いからな」
「あの、前に社長と行ったって」
「ああ。よく行くよ」
肋骨のなかで、心臓がぐんっと膨らんだのがわかった。予測していたとおりの回答だったとはいえ、表情に滲んでしまいそうな笑みを抑えるのは難しい。
成瀬さんと飲みに行ったあの日から、ひとつ、気になっていることがあった。厳密にはひとつではなくて、成瀬さんに恋人がいたことも少しは気になってしまっているが、今回わざわざ誘われやすい位置で作業していた目的はそれではない。
この辺りではよく見かける苗字だったからスルーしていたが、「熊谷正臣」、あの日以降、優菜と同じ苗字を持つ社長を嫌でも意識するようになった。
本来なら不採用だった僕を採用するように言ったこと、それから本社が僕や優菜の住んでいたこの街にあること。考えてみればヒントはたくさん転がっていた。
「社長、どんな人なんですか?」
「おもしろい人だよ。みんなが想像するような堅い人じゃなかったね。そういえば――」
麺二郎さんの言葉に被せるように、「トッピングは」、店主がぶっきらぼうに言った。「全部多めで」という麺二郎さんに続き、「僕もそれで」と返す。
「お、いけんの?」
「景気づけです」
社長が優菜の父親である可能性は充分にあるが、決定的な情報がないためまだ断定することはできない。麺二郎さんは社内でも数少ない、社長とプライベートな時間を過ごした人だ。彼に関する重要ななにかを知っているかもしれない。
「『そういえば』、なんですか?」
「ああ。ずっと前に娘さんに会ったことがあるけど、社長に全然似てなくて笑っちゃったなって」
「え」
ちょうどラーメンが出てきてしまったため、僕がつい零してしまった感動詞は蒸し暑い扇風機の風に吹き飛ばされるかたちになった。自分のぶんのラーメンを受け取って、箸を割り、レンゲをスープに沈める。
ラーメンに集中している麺二郎さんに話しかけるのは気が引けたが、僕は、「社長の娘」のことを訊かずにはいられなかった。彼は嫌な顔せず質問に答えてくれた。
話によれば、どうやら彼は、入社前から社長との面識を持っていたようだった。株式会社バーチャルヘヴンで働くよりも前、そのとき勤めていた会社の上司が熊谷正臣だったらしい。
「その子に会ったとはいっても、もう何年も前だぞ?」
「娘さんって、熊谷優菜……ですよね? あの、髪が長くてぱっちりの二重で、四つ葉のキーホルダーを付けた」
「名前までは覚えてないけど、うん、大事そうに四つ葉のキーホルダーを持ってたよ。人見知りで全然話してくれなかったから、その印象が強かったな」
麺二郎さんはそう言い終えると同時、勢いよく麺を啜った。会話のテンポを合わせるため、僕も咀嚼中の口に太麺をぎゅっと押し込む。喉に、「人見知り」という言葉が引っかかった。
「その子と知り合いなの?」
「はい、幼馴染でした」
「ああ、そうだったんだ」
麺二郎さんは優菜が死んだことを聞いていないのだろうか。暗い雰囲気になることを覚悟していたが、知らないのであればわざわざ言う必要もない。
「あの、麺二郎さん。優菜は人見知りだったんですか?」
「俺はそんな印象だったよ」
優菜は羨ましいくらいに人との会話が上手かった。クラスでも中心的な存在だったし、僕が知る限り、彼女のことを嫌っている人間は一人もいなかった。それは、彼女が持つ、初対面でも心をぐっと引き込まれてしまうような、他の誰にも成し得ないあの包容力がそうさせているのだと思う。僕の他にも優菜のことを好きになった人がいるに違いない。
麺二郎さんも優菜と似たような性質を持っている。だからこそ、一名の例外はいるが、彼は誰とでもラーメンを食べることができるし、社内でも美しいほどいじられキャラを全うしている。そんな彼に対して、優菜が距離を置くなど考えがたかった。
麺二郎さんは今年で二十八歳になると言っていた。頭のなかで計算してみる。彼が社長に会ったのが新卒だとして、そうなると、麺二郎さんが優菜に会ったのは、ちょうど彼女が転校したあたりということになる。引っ越した先で何があったのだろうか。
「俺に対して人見知りだったのは、俺が夕陽じゃなかったからだよ」
「え、どういうことですか」
「気を許した相手、もっと言えば好きな人にしか心を開かなかったんじゃないの」
麺二郎さんのウインクを見て、なぜか、トッピング量を最大にしてしまったことへの後悔がやってきた。
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