第3章『おねがい、どこにも行かないで。』

3-1「夢の続き。」

 夢というものは、その内容に関係なく、覚醒時にいい影響を及ぼすことはあり得ないと僕は思う。幸せな夢であれば現実との落差に絶望するし、不幸な夢は現実世界の苦しみを何倍にも増幅させる。


 その日に見た夢はそのうち両方の属性を帯びていた。


 最初の夢は、優菜と仲違いして、そのまま会えなくなってしまった過去をそのまま再現したものだった。この次に起こることを知っているのに、どれだけ心が痛くなろうと、僕は過去のできごとから外れた行動を取ることはできない。痛みを感じながらも同じことを繰り返すしかないこの記憶を、僕はただ受け入れるしかなかった。


 僕は必ず優菜の期待を裏切らなければならなかった。


 僕たちはいつの間にか中学校の校舎裏にいて、優菜が「これからどうしよう」と言う。日は傾き始めていて、ひどく湿気を帯びるようになってきた空気を、夕焼けチャイムの余韻がぼうっと揺らしている。優菜は、母親が死んだと聞かされたばかりだった。


「大丈夫?」


 何か気の利いたことを言わなければならないのに、頭に浮かぶのは、辞書にそのまま載っているような言葉だけだった。僕は、俯いた優菜の顔に陰がかかっていく光景をただ見ていることしかできない。ただ、自分の選んだ言葉が誰かに影響を与えるのが怖かった。


 僕にとっての死は、いつか訪れる怖いもの、という程度の認識でしかなかった。死んだ人には二度と会うことができない。当時はその知識に、心が追いついていなかったのだと思う。


「たぶん、天国で優菜のことを見守ってるよ」


 この言葉を選択してしまったことは、あとから考えてみれば完全に僕が悪かった。優菜は目を細めて僕を見ていた。


「それ、やめてよ」

「何が」

「何も考えてないじゃん。有里はいつも都合のいいことだけ思考放棄してる」

「え、何の話?」


 優菜がゆっくりと息を吐きだす。僕は、そこに含まれる分子のひとつひとつが棘を持っているように感じた。


「有里はさあ」


 もう一度息を吐いて、それに続いた優菜の言葉は「やっぱりいい」だった。彼女は言いづらいことを口にするとき、何かを話しかけてから言葉を中断することがある。だから心の奥底にある鬱憤を引きだすためには、僕が「言って」と続きを促す必要があった。これはもしかしたら、優菜なりの優しさなのかもしれなかった。


「有里はいつも、大切なことばっかり、考えるのをやめる。私は有里が好きだったよ。でも、有里は、想いを伝えたら関係が変わるとか失敗したらとか悩んで、結論が出なくて思考放棄した」


 その先、優菜が何を言ったのかはいくら考えても思いだせない。忘れてしまったことはいくら夢でも再現できないようだった。それは、その内容すら僕が考えないようにしてきたという解釈もできる。とにかく、「もう私のことは忘れて」と言った優菜が僕に背を向けるまで、思考はちゃんと機能していなかった。


 最悪な夢の続きはいつも、幸せな時間がやってくる。


 優菜は真っ黒で長い髪と、バッグに付いた四つ葉のキーホルダーを揺らしながら僕の元へ駆け寄ってくる。キーホルダーは、僕が誕生日にプレゼントした、お揃いのものだった。「待ってるから」優菜はそっと僕の手を握る。「うん」、僕は情けない返事をする。どうして僕を置いて自殺なんか。言葉を飲み込む。


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