2-9「一瞬の激痛と、慢性的な鈍痛。」
「とりあえず仕事はまあまあです」
お通しは塩だれキャベツだった。成瀬さんは小皿から一枚つまんで、口に含んだキャベツを長い間咀嚼したあと、「そうか」と短く返事をした。
「でも、今回の仕事はなんだかメンタルに来るものがありました。成瀬さんは精神的に大丈夫なんですか?」
「夕陽。大切なのは、囚われないことなんだよ」
成瀬さんがちいさく、無敵にも見えるような表情で微笑んだ。注文した品が次々運ばれてくるのを受け取りながら、「囚われないこと、ですか」と訊き返す。「そうだ」、成瀬さんは短くそう呟いたあと、残りのビールをすべて飲み干し、配膳を終えた店員に追加のビールを注文した。
「人間が上手く生きるために必要なのは、死に囚われすぎないことなんだよ。私たちの使命は彼らの痛みを理解し、よりよいサービスを提供することだけだ。それで私は上手くやってる」
「僕は囚われているんですかね」
「だからほいほい流されるんじゃないか」
「言い方が悪いですよ」
人は必ず死ぬ。次の死は大切な人かもしれないし、もしかしたら僕自身なのかもしれない。自分が生きる上でこなさなければならない選択は、次に出会う選択をより悪い方向へ導いてしまうような気がしていた。
ひとつの決定は、その重要度にかかわらず、その後の人生を大きく左右する力を持っていると思う。ここで僕が返す言葉は、今後、誰かの死を凄惨たらしめる力を持っているかもしれない。
「でもまあ、いまさら死んだ幼馴染のことを思いだすのは確かです。……ってこれ、なんの話でしたっけ」
「夕陽が勝手に脱線させた」
「成瀬さんじゃないですか?」
「私じゃない。とにかく私が言いたいのは、社長からも期待されてるんだからもっと努力しろ、ってことだ」
「僕がっ?」
驚きのあまり変な力が入って、声が裏返ってしまった。「え、社長が僕に期待してるんですか?」、あまりにも非現実的なことを言うので、間違いを正すような言い方になってしまったのは仕方がない。
「才能を見いだしたんじゃないか。夕陽のなかに」
「いやいや」
「前にも言ったが、夕陽を採用したのは私でも、横にいた人事部の爺さんでもない。社長だ」
「いや、どうして社長が僕を?」
僕に社長と話した記憶はないし、彼との面識もないはずだ。それどころか社長の顔すら曖昧だ。海外のドッキリなどでよく見る、面接前に助けた老人が実は社長だった、みたいなことがあったのかもしれない。
社長がどうして僕を贔屓したのか、彼女に訊いても「どうだろうな」の一点張りだった。ちなみに、成瀬さんが僕を不採用にした理由は「使えなさそうだったから」らしい。しかし社長のことについてはビールが五杯目になっても教えてくれなかった。結局、有意義な回答は期待できそうになかったので諦めることにした。
早い時間から飲んでいたのか、サラリーマン集団のひとりが大声で会計を求めている。成瀬さんは六杯目のビールを真顔で飲んでいた。ふわり、男が立ち上がった拍子にきつい香水のにおいが漂ってきて、勢い余って吸い込んだ空気には煙草の副流煙が混じっており、ほんのすこし、喉が乾燥したようになる。喉の痛みを緩和するみたいに、残っていたビールを一気に流し込んだ。
痛みを乗り越えるには、原因を解明して治療する方法とより大きな痛みで手っ取り早く抑える方法のふたつがあって、いままで僕が選んできたのはおそらく後者だった。不幸で居続けることは心地いい。憂鬱は、何か言い訳を探し続けることと似ていた。
「夕陽が依頼者に感情移入してしまうのは、他者の痛みを取り入れて、自分の痛みを忘れようとしているせいじゃないのか」
成瀬さんが淡々とした口調でそう言って、あれ何の話だっけと思って記憶を遡り、前回の会話から特に関連性を見いだせず、時間をかけて言葉の意味を咀嚼したあげく「そうですかねー」と中身のない返事をしてしまった。
「僕は引きずってないですよ。優菜の死を」
優菜、という名前に成瀬さんは一瞬眉をひそめて、「ああ」と頷いた。僕と優菜の関係を、過去の会話から推定してくれたようだった。
「たしかに引きずっていないかもしれないな。でも、受け入れているようにも見えない」
僕たちが座っているところからずっと離れた場所で、照明が点いたり消えたりを繰り返している。光の動きに当てられて、視線を逸らしたあとも景色が暗転と点灯を繰り返しているように感じた。店内を見回してみても、目に映る人たちからそれを気にしているような素振りは見られなかった。
「大切な人が死んだら誰でもそうなりますよ。成瀬さんはいないんですか、恋人とか」
下から、すくい上げるみたいにこちらを見上げる仕草が優菜に似ていると思った。一瞬「優菜」と呼んでしまいそうだったのは、成瀬さんのペースに飲まれて普段以上のアルコールを摂取しているせいだとみて間違いない。
「どっちだと思う?」
成瀬さんはそう言うと、目を細めてちいさく笑った。「いる?」と訊き返したところ、彼女は何も言わず、顔に滲ませていた笑顔をより深くした。
「あ、いるんですね」
成瀬さんは何も言わなかった。いま返事をしたときの、「あ」があまりにも行き場がなさ過ぎてすこし情けなくなった。自分の声のトーンが、いつもと少し違っていた。
床に、フライドポテトが一本転がっていた。まんなかで折れ曲がっていて、いまにもふたつに別れてしまいそうだった。ふと、彼女は恋人との時間を確保するために必ず定時で帰っているのだろうなと思った。
いつの間に頼んでいたのか、生ビールがひとつ、机に置かれる。回収されたジョッキの下に、大きな水たまりができていた。
「たぶん、受け入れるとかじゃないんです。忘れてしまうほうがずっと楽なんですよ」
「一瞬の激しい痛みと長く続く鈍い痛み、どっちがいいんだろうな。まあ、言いたいことは理解できるよ」
「なんかあったんですか、彼氏さんと」
成瀬さんはその言葉に返事をせず、「お冷やをふたつ」、去り際の店員にそう注文した。それから僕の目をじっと見て、困ったように笑った。
* * * * *
優菜が眠っているのは、地元から車で三十分のところにある県内最大の霊園だった。最後に訪れたのは高校三年生の時で、これもまた唯に無理矢理連れてこられたものだ。当時はふたりとも車の免許を持っていなかったため、駅から霊園までの道を炎天下のなか一時間かけて歩かなければならなかった。
優菜の命日、優菜の墓という今まで自ら遠ざけていたものたちは、実際に訪れてみれば呆気ないものだった。彼女が眠っているという場所には「熊谷家之墓」という文字の刻まれた大きな石が建っているだけで、それが優菜の死を想起させるわけではない。
「ねえ、覚えてる? 私が猫を殺したって、クラスで疑われた話」
「うん」
鮮明に覚えている。道端で倒れていた野良猫を唯が発見して、慌てて運んでいるところをクラスの男子に目撃され、「猫殺しの犯人」という汚名を着せられてしまったことがあった。いくら無罪を主張しても変わらなかった状況を、優菜は簡単に打開した。
「あのとき、優菜がみんなの誤解を解いてくれた。優菜の言うことだから、みんなしっかり聞いてくれた。明るくて、誰にでも優しくて、みんなあの子のこと好きだったよね」
「うん」
それが何。心に浮かんだ言葉を口に出さなかったのは、優菜の話がこれ以上膨らむことを避けるためだった。
桶に水を汲んで、柄杓で墓石に水をかけて、仏花を添える。それっぽい行為にどのような意味があるのかは未だにわからない。丘の上に、大きなケヤキの木が立っていた。木の種類を見分けられるわけではない。昔、墓参りのときに唯が教えてくれたことをなんとなく覚えていた。唯があの木の名前をどこで知ったのかはわからないままだった。
「だから、みんなは優菜の葬式で泣いてた」
唯は優菜の死を忘れていない。毎年、命日には優菜の墓に訪れている。でも、彼女はバーチャルヘヴンに固執するような人間ではない。元から完成された人間なのかもしれなかった。
唯が目を閉じて手を合わせている間、僕は石に彫られた「熊谷」という文字の、溝の部分に溜まった太陽の光をぼうっと眺めていた。
「あのさ、有里」
「うん」
墓地は草の青々しい匂いがした。いまをたしかに生きている植物たちから沁みだした、澄み渡ったその空気自体が死というものを土のずっと下のほうに閉じ込めているのだろうと思う。僕がこの鼻で死の匂いを感じ取るためには、芝の下に埋まっている優菜の遺骨を堀りだしてくる必要があった。
「まだ引きずってるでしょ」
唯がぶっきらぼうに言った。右耳に付いた星形のピアスは恋人とのお揃いだと、行きの車で得意げに語っていたことを思いだす。
「別に、引きずってないよ」
死の悲しみを引きずったり優菜が生きていた未来を何度も夢想してしまったり、そういう心を重たくするような行為をしていないのは本当だった。成瀬さんの言葉を借りるなら、僕は受け入れることを諦めてしまっているのだと言える。
「優菜はもう死んでるよ」
唯は僕と視線を合わせなかった。そんな前のことをいつまで引きずってるの、というのが彼女の言いたいことだった。
感情を感情として認識するための閾値が低くなっている気がする。凹凸のあるグラウンドがブラシで均されていくように、心の感情で隆起した部分が次第に平面化されていた。僕は何も言い返せなかった。
唯に続いて優菜の墓石に背を向けたとき、僕は今年初めて蝉の声を聞いた気がした。
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