2-8「仕事と炭酸。」

 夫婦のチェックアウトが完了し、山中家の三人をビルの外まで見送ったあと、山中洋平が何かを思いだしたかのように駆け戻ってきた。


「成瀬さん、夕陽さん、ありがとうございました。……父さんは、会社の悪事を暴くとか訴訟するとか、そういうのはどうでもよかったのでしょう。ふたりが救いたいのは兄ではなく、自分たちだったんだと思います。死者に感情はありませんから」

「……あの、洋平さんはお兄さんに会わなくてよかったんですか?」


 余計なことをしたかもと思って成瀬さんのほうへ視線を送ってみたが、彼女の表情に僕を責める様子は浮かんでいなかった。ほっと胸をなで下ろし、洋平のほうへ視線を戻す。


 ひとつ、気になっていた。決して彼が山中秀平を嫌っているようには見えない。それなのにバーチャルヘヴンへのチェックインを拒否した理由がわからなかった。


「たしかに会いたいけど、俺はいいんです。俺のなかで兄はきちんと死ぬことができたんです。……いや、表現は変かもしれないですけど。でも、だから、自分には必要ないかなって。俺のほうこそ、逆に縋ってしまいそうですから」


 はは、と洋平が笑った。その内側から湧き出るような明るさに、つい引きずられそうになる。「俺のなかで兄はきちんと死ぬことができた」、彼の言葉が胸の奥にすうっと染み込んでいくような気がした。


「私は仰るとおりだと思いますよ。きちんと距離感を掴むことが大切ですから」

「ええ。……でも、久しぶりに両親の笑う顔を見ました。いつか両親がゆるやかに兄の死を受け入れてくれれば、それでいいのかもしれません」


 洋平はそれだけ言うと、僕たちの返事も待たず、離れた場所で待つ夫婦の元へ走って行ってしまった。いつの間にか影が伸び始めていて、時計は間もなく定時を指そうとしていた。再会を果たし、死者に寄り添うことになった今回の結果に対して、肯定的な意見を聞けたことに僕は安堵していた。


「終わったな、夕陽の初仕事」

「……十年ぶんくらい働いた気がします」

「そうか。だったら軽く酒くらいは奢ってやってもいい」

「んん?」


 彼女の言葉に、僕は一瞬、耳を疑った。成瀬さんが誰かを食事に誘うなんて珍しい。いや、珍しいどころか、記憶を掘り返してみたところで彼女が自ら誰かに声をかける瞬間すら見たことがないかもしれない。昼休みも自分のデスクで可愛らしいサイズの弁当をひとりでつついているし、定時になれば職場の誰よりも早く席を立ってしまう。社員たちの飲みの場にも一度だって顔を見せたことがない。


「もうすぐ定時ですよ? 帰らなくていいんですか?」


 珍しいな、という考えが「何か裏があるのでは」に変わってきたころ、「どうしても帰ってほしいならそうするが」と成瀬さんが目を細めて言った。「いや行きます」、僕が答えるのと、オフィスに到着するのはほぼ同時だった。


「だったら早く準備しろ」


 成瀬さんでも、誰かと酒を飲み交わしたい瞬間があるのかもしれない。いや、普通に僕の初仕事を労ってくれているだけだろう。


 帰りの準備を終えてフロアにいる社員たちに「お先に失礼します」を言ったとき、慌てたように時計を確認する麺二郎さんの姿が目に入った。どうやら、昼間に「報告書、提出しなきゃなあ」と言いながらもラーメンに時間を費やしていたツケが回ってきているようだ。


 成瀬さんに連れてこられたのは、下町によくありそうな、古びた雰囲気を纏うちいさな大衆居酒屋だった。僕たちの他に、サラリーマン風の集団が端っこのテーブルを陣取っている。カウンター席には老人がひとり座っていて、店の者らしき男と楽しげに言葉を交わしていた。小洒落たバーのような店もいいが、こういう庶民派の居酒屋もなかなか味がある。


 おしぼりを受け取ったあとすぐに成瀬さんが注文したふたつの生ビールは、僕たちが話題をひとつ消費しきるよりも早く運ばれてきた。


「じゃあ、乾杯」

「あ、はい」


 僕と成瀬さんのジョッキがぶつかり、人の声と何かの焼ける音が充満している店内に、ガラス同士のぶつかる小気味いい音がぶわりと沸き上がっていった。ビールを飲むのは久しぶりだ。弾けるような炭酸と旨味が喉を通り抜けていったとき、身体が震えるような清涼感がした。成瀬さんのビールはすでに三分の二がなくなっていた。


「どうだ? いい場所だろう」

「近くにこんな場所があるんですね。知らなかったです」

「穴場なんだ」


 高校三年生までの十八年間と東京から戻ってきてからの数ヶ月、僕は長い間この街に住んでいたはずだが、こんな居酒屋があったことを知らなかった。成瀬さんはこの土地で五年近く働いているらしい。直近で僕よりも長い時間をこの街で過ごしているから、想像するよりもずっと成瀬さんのほうがこの街に詳しいのかもしれない。


 立ち会いの疲れと空腹のせいか、早くもアルコールが脳を侵食し始めている。成瀬さんのビールはすでになくなりそうだったが、酔っている様子は微塵も感じられなかった。


「あー、会社にはもう慣れてきたか?」


 言葉の最初に付けられた「あー」があまりにも不自然だったので、僕はつい「どうしたんですか?」と訊き返してしまった。「別に」成瀬さんがぶっきらぼうに言う。彼女はおしぼりで手を拭くと、綺麗に折りたたんで机の端っこに置いた。


「社長に親睦を深めてこいと言われたが、何を話せばいいかわからない」

「あっ……そういう」


 何か裏があるのではという僕の予想は、限りなく正解に近づいていたようだった。成瀬さんが進んで後輩を飲みに誘うわけがない。思い返してみれば、彼女が僕の仕事ぶりを労ってくれたことは一度もなかった。何かを期待していたわけではないが、なんとなく、数口ぶんのアルコールが無効化されたような気がする。

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