2-7「なにより大切な。」

「では、ご案内いたします」


 来客用のチェックインルームには個室が並んでいて、バーチャルヘヴンを利用する依頼人はそれぞれのブースでデバイスを装着することになっている。以前麺二郎さんが「公衆電話のブースくらいの大きさだな」と言っていたが、いまいちぴんとこなかった。


 山中夫婦をそれぞれ別のブースに誘導し、操作説明を行っていく。僕が山中、成瀬さんは夫人を担当することになった。洋平のほうは兄に会わないことに決めたらしい。


 ブース内には大きな椅子が置いてあって、万が一にでも動いてしまわないよう、身体を固定する仕組みになっている。これは自動で調節することもできるので、一度慣れてしまえば、初心者でもひとりでチェックインすることが可能だ。


「はい、次にこちらを装着して――」


 完全没入型のゲームで遊んでいた経験もあり、機械の装着から説明まで、スムーズに行うことができた。これはきっと、僕が初めてゲーム機に触れたとき、優菜が丁寧に説明してくれた過去が活きているのだと思う。


「万が一仮想空間内で身体の異変や体調不良などがありましたら、すぐにお声かけください。我々スタッフもすぐに向かうので、その場から離れずにしばらくお待ちください。ご不明点などございますか?」

「ひとつ、お伺いしても?」

「はい」

「夕陽さんは、誰か大切な人を失った経験はありますか?」

「え、……あ、えっと、はい、あります」


 予想外の質問が飛んできたので、一瞬、「社員の夕陽有里」としての顔にヒビが入ってしまった。ゴーグルの下で、山中は僕の動揺を優しく包み込むように笑っている。


「そうでしたか。大変つらかったことでしょう。私はね、洋平の言いたいこともわかるんです。でも、縋らずにはいられない。夕陽さんは、その人の死を乗り越えられましたか?」


 彼の言葉を定着させようとして、乗り越えた、とは少し違う気がした。自分はただ、優菜から遠ざかろうとしている。何色もの絵の具をぐちゃぐちゃに混ぜて元の色がわからなくなるみたいに、僕は優菜との思い出を別の記憶で判別が付かないほど煮込んでしまったのだと思った。


 でも、もう優菜の死に心を重たくするようなことはない。だから、「たぶん、乗り越えたと思います」、とだけ答えることにした。「そう、そうですか」と山中は呟くように言った。


「お時間を取らせてごめんなさいね。私を息子の元へ連れていってください」

「……かしこまりました、では起動します。身体の力を抜いて、リラックスしてください」


 電源ボタンに指を乗せると、高い機械音が微かに空気を揺らす感じがして、山中はすぐに動かなくなった。ちゃんと起動していることを確認し、山中のブースを施錠したあと、スタッフ用のチェックインルームへと足を運ぶ。


 縋らずにはいられない、と山中は言った。自分は優菜に縋っていない。反対に、盲目的に縋れてしまったら余計なことを考えずに済むのだから、もしかしたらそっちのほうがずっと楽なのかもしれなかった。


 スタッフ用のチェックインルームではすでに、成瀬さんが仮想世界へ移動を完了していたようだった。彼女の隣の椅子に腰を下ろし、機械を装着する。電源ボタンを入れてからすぐに意識がよどみ始め、数秒後には視界が機能しなくなっていた。


 真っ暗なのに、機械の甲高い音だけはしばらく耳に残り続けている。この感覚は死に向かっているようで、研修でも使ったことがあるとはいえ、何度経験しても恐怖を払拭することはできそうになかった。あのとき平気だったのは、優菜が隣にいてくれたおかげだろう。


 目を開いたとき、一瞬、視界が大きく広がったようになった。続いて身体がまんなかから感覚を取り戻していき、指の先まで違和感なく動くようになる。チェックインが完了するまでの間は、夢から覚めたときみたいに、生と死の境界線が曖昧になっているような気がした。


「迎えに行くぞ」

「はい」


 バーチャルヘヴンのなかには、現実世界と同様、来客用のチェックインルームがある。山中夫婦は事前に説明したとおり、ブース内の椅子に座ったまま待機してくれていた。


 彼らを引き連れ、成瀬さんの先導で山中秀平が待機している部屋へと案内する。ふたりの表情にはどちらにも、喜びと緊張、ふたつの感情が覗えた。


「山中秀平様のお部屋はこちらでございます」


 彼が住んでいるのは、現実世界でもよく見かける、都市部に多いごく普通のマンションだ。成瀬さんがインターホンを押すと、「はい」、スピーカー越しにひどく清涼感のある声がした。山中夫婦は、息子の声だ、というように顔を見合わせている。


「株式会社バーチャルヘヴンの成瀬です」

『……はい。お待ちしてました。いま出ます』


 ざざっ。スピーカーの雑音から間もなく、玄関の扉がゆっくりと開かれた。親子の再会を邪魔しないためか、成瀬さんは一礼したあと、一歩だけ後退した。


 出てきたのは、爽やかな声にぴったりの好青年だった。人によっては弟よりも若く見えると言うかもしれない。いつか山中が語っていた、「誕生日だけではなく父の日や母の日まで、贈り物を用意してくれる」という人物像をそのまま体現したような出で立ちだった。


「秀平……!」


 最初に動いたのは夫人で、山中秀平に抱きついた彼女を、さらに大きく包み込むように山中が腕を伸ばした。山中秀平は一度目を丸くしたものの、みるみるうちに目が潤んでいって、「ごめん」、絞りだすみたいに言った。


 息子が死んだと聞いたとき、ふたりはどんな思いだったのだろう。愛する子どもを思い日々の仕事を耐え忍んで、丁寧な料理を作ってやり、たくさんの愛情を注ぎ込んできた。彼らの表情を見れば、それを想像するのは簡単だった。就職祝いに腕時計を買ってやったとき、秀平はすごく喜んでくれたんです。山中がそう語っていたことを思いだした。


 彼らにとって、息子たちは心の拠り所だった。きっと、戸籍上の生死は関係ない。そばにいてくれさえすればいいと考えるのにも納得できる。


 僕は何も言えなかった。身動きが取れなくなっていた。ふたりにとって目の前の彼は、人工知能では収まりきらない存在なのかもしれなかった。


 やはり僕は同情してしまっているのだと思う。成瀬さんが口にした「向けるべきなのは同情じゃない」という言葉は、仕事と自分を切り離すべきという意味ではなかったのかもしれない。僕に必要なのは彼らに対するただの理解で、それ以上の感情はすべて邪魔でしかなかった。痛みを理解して、よりよいサービスを提供することが僕たちの仕事だった。


「お前が死んでから、どれだけ……」


 やっとの思いで、というように発せられた言葉は、結局、最後まで音にされることはなかった。声の震えはそのまま、彼らがこれまで背負ってきた痛みを体現しているようだった。


「……父さん、母さん、ごめん。俺、ずっと後悔してた」

「いい。大丈夫だ、大丈夫だから」


 山中は低く、震えた声でそう言うと、また力強く息子を抱きしめた。彼が抱いている感情は、視覚情報だけで充分に伝わってくる。


「……みんなをこんなに悲しませるなら、あのときちゃんと相談すればよかった。父さんの話を聞けばよかった……! なんで気づけなかったんだって、生き返ってからずっと後悔してた」


 未来も過去も同様に変えることはできない。あるのはやっぱり選択したことの結果でしかなくて、だから過去の失敗を悔やむ行為は全くの意味を持たなかった。それなのに後悔に時間を使ってしまうのはなぜなのだろうと思う。


「秀平。もう、いいんだよ。充分頑張った。だから、あとはここで暮らしなさい」

「……うん。今度こそ、ちゃんと、ふたりのそばにいられるようにするから」


 涙を流す山中秀平は、最初の印象とは異なり、まるでちいさな子どものようだった。これまでの苦労が、彼をそうさせているのかもしれない。彼は顔を上げると、成瀬さんと僕にそれぞれちいさく頭を下げた。僕は彼に頭を下げ返して、成瀬さんは無表情のままだった。


 ふわり、春のような風を感じて、バーチャルヘヴンのなかにも風は吹いているんだ、と思った。優しく肌を撫でていく風は、どれだけ触れ続けても、現実世界との違いを見つけることはできなかった。


「ねえ、洋平は元気?」

「ああ、元気だ。さっきも怒鳴り合いの喧嘩になった」

「……変わってないんだ」


 山中秀平は呆れたように微笑んで、それから再び彼を強く抱きしめた。夫人は何度も頷きながら、嗚咽を漏らしている。


 山中秀平が勤めていた会社は、彼の死によって体制が見直され、労働環境が改善されてきていると成瀬さんから聞いた。彼の死は決して無駄ではない。しかし、それを話したところで山中夫妻の悲しみを軽減できるとはとても思えなかった。


「俺、今度はちゃんと恩返しするから」


 山中は何も答えなかった。肩を震わせながら、息子を抱きしめている。山中秀平はふたりがそこにいることを実感するみたいに頷いたあと、再び口を開いた。


「いつか洋平も呼んで、また昔みたいに四人で出かけよう」


 心のずっと深い部分で、うらやましいな、と思った。自分がどうしてそんな感情を抱いたのかわからなかった。僕は優菜の死を理解しているはずだし、たしかに会いたい気持ちがあるかもしれないけど、縋ってしまうほどではない。だからこそ、自分が優菜との再会を想像してしまったことをうまく整理することができなかった。


 山中夫婦はしばらく仮想世界の息子に縋ってしまうだろう。過去に縋ることは、本当にいけないことなのだろうか。幸せそうに笑い合う三人を見ていたら、そればかりが正しいことではないような気がしてきた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る