2-5「未来を掴み取ろう!」

 熊谷優菜は小柄で髪の長い、好奇心に満ちた女の子だった。


 初めて言葉を交わしたのはたしか小学生になる前で、「幼馴染」から「やたら距離の近い異性」へと認識が変わったのは中学校に入る直前だった。優菜と唯は母親同士の仲がよくて、唯の父親と僕の父親の間に交流があったから、よく子ども三人で遊ぶ機会があった。


 優菜は社交的で、それでいてどんなことでも楽しめる子どもだった。言い方を変えれば飽きっぽい性格だったのかもしれない。しかし、あちこち連れ回される放課後もいつからか悪くないと思うようになっていた。


 僕が自分の気持ちに気づいたのは、たぶん、地元で開催される夏祭りで彼女の浴衣姿を見てしまったことが原因だったと思う。夜空をぎゅっと凝縮したような藍色の浴衣は、彼女の透き通るような細い腕に映えていた。ぱっちりとした幅の広い二重、それから花火が咲いたみたいな笑顔にはそのときに強く惹かれた。


 唯は「私は友だちと行くから」なんて言っていたが、僕たちに気を利かせてくれたことは明らかだった。僕たちというより、優菜に、か。唯だけは優菜の気持ちを知っていたようだった。


 ふたりで見た花火は綺麗だったし、会場の端っこにある木製のベンチでひっそりと食べた、一パック三〇〇円の焼きそばはそれまで口にした何よりも美味しかった。


 花火を見上げて、軽く手が触れ合って、優菜が「あ、ごめん」と赤い頬のまま上目遣いをしている。その光景が、深く心に刻まれた。想いは肩書きを追い越してしまっていた。


 この日が一つ目の転機だったのだと思う。僕は優菜に自分の気持ちを伝えることができなかった。関係が変わってしまうことが怖かった。


 優菜の家にはVRのゲーム機があって、僕は「それで遊びたい」を理由にしばしば彼女の部屋を訪れるようになった。彼女が様々な型のVRゲームを持っていたのは、仮想空間デザインの仕事をする彼女の父親による影響だろう。


 完全没入型のゲーム用デバイスを持っている同級生はほとんどいなかった。僕も持っていない側の子どもだった。


 初めて完全没入型のゲーム機をプレイしたとき、視界がぐっと押し広げられたような気がした。風に揺られる木々やどこまでも続く地平線、青く澄み渡った空は現実世界よりもずっと美しく見えた。


 僕たちが最も時間を費やしたのは、無人島を開発しながらのんびりと暮らす、いわゆる箱庭ゲームと呼ばれる代物だった。その島の住民になって魚を釣ったり料理をしたり、家を建ててみたりなど好きなように時間を過ごすことができる。


 はぐれないように手を繋ごう、と最初に言ったのは優菜だった。もちろん、僕はそれに応じた。


 完全没入型デジタル環境にチェックインする際、プレイヤーはゴーグル状のゲーム機と、グローブのようなデバイスを装着することになっている。意識が完全に仮想世界へ移動したあと、意図的に行った身体の動きはすべて仮想空間における作り物の身体に反映される、という仕組みだ。


 この仮想世界で、僕たちは「作り物の身体だから」を免罪符に触れ合った。手を繋いだし、隠れて口づけを交わしたこともあった。幼馴染という肩書きに縛られていても、偽物の身体だからできることがあった。それでも、幸せな時間は長くは続かなかった。


 二つ目の転機はすぐにやってきた。長い間病気で寝込んでいた優菜の母親が合併症の影響で亡くなった。それから追い立てるみたいに、優菜は父親の仕事の関係で都会に引っ越すことになった。引っ越すことは前々から聞いていたが、優菜にとって、悲しいできごとが重なりすぎてしまった。


 最後の言葉は「私のことは忘れて」だった。その後、優菜が自殺したと聞かされた瞬間、僕にとって彼女は確実に忘れられない存在になってしまった。


 あのとき想いを伝えられていたら、僕はもっと優菜と連絡を取っていただろうし、そうすれば優菜がひとりで思い詰めることもなかった。自分から連絡したくないという、優菜を試すことにも似た情けない意地が彼女を殺してしまった。


 自己決定の機会はなるべくないほうがいい。何かを決定するということは、その重さのぶん、何かを犠牲にしなければならない気がしている。このできごとは僕の優柔不断をより深く、心に根付かせる結果となった。


 心の重さを忘れるためにいくら仮想空間の勉強をしても、過去は変わらない。でも、一時しのぎくらいにはなる。嫌なことを忘れたいときは、周りが見えなくなるほど何かに熱中する、という営みが必要だと思う。


 だから、今、「お客さーん、もう閉店の時間ですけど」という唯の言葉に慌てて帰る準備をしているのも仕方のないことだと言える。「そっちのお客さんも」、唯が僕の後方に話しかけてから、自分以外にも人が残っていたことを知った。


「ごめん、集中しちゃってた」

「その割には手、動いてなかったけど。何それ、資格の勉強? 転職すんの?」

「……ああ、ENT抽出物の取扱管理士ね。これ取ると仕事の幅が広がるから」


 参考書とノートをまとめ、ページが折れないようバッグにしまい込む。時計の長針は「十」のわずかに先を示していた。


 参考書の帯に、「未来を掴み取ろう!」と書かれていた。未来は変えられる。そんな愚かなことを口にする人間があまりにも多すぎると思う。未来も過去も同じだ。どちらも、選択した事柄の結果が伴うだけで、何かを変えるなんてことは起こりえない。


「まーた考えごと?」


 食器をクロスで拭いながら、唯がやけに間延びした口調で言った。ただ戯けているようにも、僕をからかっているようにも聞こえた。


「私、このあと彼氏と遊びに行くの。急いでくれない?」

「えっ、彼氏いたの」

「いるよ」

「あ、そうなんだ」


 聞かされてない、と言おうとしてやめた。


 僕たちが普段行うやりとりには情報交換のような性質があって、互いの近況の大体を把握している、はずだった。親友とも呼べる存在がいつの間にか恋人を作っていることに、なんとなく、焦りのようなものを感じる。とはいえ情報交換は義務でもなんでもないので、恋人ができたと報告しなかったことに言及するのは間違っている。


「訊かれなかったから」


 おそらく、唯は僕が言おうとしたことに気づいていたのだろう。彼女は昔から人の考えを敏感に感じ取るときがある。


「いや、そもそも僕が連絡を返してないから」

「うん、ほんっとにね。で、有里はいい人いないの? 女、会社にひとりくらいはいるでしょ」

「女の人はいるけど。いい人っていうのは別に」

「つまんな」


 一瞬だけ成瀬さんが浮かんでしまった理由は、よくわからなかった。あんな人と日夜一緒にいたら、おそらく精神が持たなくなるだろう。麺二郎さんと付き合ったほうが何倍も気楽そうだ。


 そういえば、艶のある長い黒髪と、幅の広いぱっちりな二重は優菜に似ているなと思った。


「ねえ早くしてよ」

「もう準備できたよ」

「だったら早く出てけ」


 わざと気怠げな返事をして、身体の向きを変えた拍子に、大きなカレンダーが視界に入った。優菜の七周忌まで、残り一ヶ月を切っていた。


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