2-4「死の理解。」

「以上の内容をご確認いただけましたら、こちらにご署名をお願いします」


 面談から一週間、山中夫婦との契約は想像よりもスムーズに進んだ。やはり、彼らは面談よりも前からバーチャルヘヴンを利用すると決めていたようだった。


 契約書の内容には「バーチャルヘヴンに復元する人物は、ご遺体の脳に残った痕跡から記憶を復元し、人工知能に学習させたものになります」という文言がある。これはおそらく、「生前と違う」というクレームを抑制するためのものだろう。


 蘇る死者の記憶は死んだ時点、正確に言えば意識を失った時点までが復元されるため、バーチャルヘヴンで意識を取り戻した当人が混乱してしまうなんてこともよくあるらしい。そのため社内には、バーチャルヘヴンの仮想空間にチェックインし、死者たちに状況を説明するための課がどこかの部署にあるようだった。


 成瀬さんは山中から契約書を受け取ると、「ありがとうございます」、一文字ずつ丁寧にお礼を言った。


「……よろしくお願いいたします。これで、息子に会えるんですね」


 山中の声は、ほんのすこし湿気を帯びていた。大切な人を失った痛み。つられるみたいに引きだされた感情を、空気を飲み込むことによってなんとか溜飲する。夫人の目にはすでに、涙が滲んでいた。


「はい。バーチャルヘヴンへの復元が完全に完了するのは一ヶ月後になります。初回のチェックイン時には我々も同行させていただきますのでご了承ください」


 彼らが身につけているバッグやアクセサリー類は、決して高価な物には見えない。「金持ちを見極めるには靴を見ろ」なんて言うが、ふたりが履いているのはなんの変哲もないスニーカーだった。愛する息子に会うため、貯金を切り崩したのだろうか。大切な人に会うためだったら、生活を削るほどの出費なんて取るに足らないのかもしれない。


「それではよろしくお願いいたします」


 応接室を出るとき、山中夫妻は穏やかな声でそう言った。「はい、任せてください」、意外だったのは、そう言う直前の成瀬さんが笑顔を浮かべていたことだ。このままでは山中夫婦が負った痛みを強く感じ取ってしまいそうで、何かくだらないものを浮かべるために脳内を探ってみても、効果的なものはどこにもなかった。


「夕陽」

「はい」

「どう思った?」

「どう……?」


 最初に思い浮かんだのはやはり心の痛みだった。大切な息子のために大金を支払うことに決めた夫婦に、やはり感情移入せずにはいられない。僕がそれを答えるよりも早く、「私は」、成瀬さんが重たそうに口を開いた。


「あの夫婦はバーチャルヘヴンを使うべきではないと思う」

「え、どうしてですか」

「夕陽は自分の大切な人の死をどう捉えている?」

「え? その話、しましたっけ」


 成瀬さんのその表情も、見るのは初めてだった。そして彼女の、丸くなった目から放たれた視線が宙を彷徨ったのは一瞬だけだった。


「……いや。なんでもない。この会社で働いているから当然誰かを失ったものだと思い込んでいた」

「いや、成瀬さんが言ったとおりですよ。僕は幼馴染を失ってます。自殺と聞かされました。けど、それ以上のことは何も知りません。だから別に、どう捉えているとかじゃないです」


 たしかに優菜は自殺した。僕の知らない場所で、知らないうちに。中学二年生のときに引っ越してから一年後に自殺するまで、僕は彼女に何があったのかを知らない。


 優菜はクラスの誰とでも仲がよくて、どんなときでも笑顔を絶やさない女の子だった。「自殺、だったらしい」唯にそう聞かされるまで僕は、彼女は事故か何かで死んだものだと思い込んでいた。長い髪を風に揺らしながら、小鳥のような声で「有里」と呼ぶあの優菜が自ら死を選ぶなんて全く想像していなかった。


「そうか。では、自殺の真相を暴きたいと思うか?」

「……ものすごく知りたいわけじゃないし、でも、知らないでいるのもモヤモヤします」


 その回答が本心なのか、自分でもよくわからなかった。僕は優菜の死をどう処理したいのだろう。自分のなかで、どういう場所に置いておくべきなのかもわからなかった。


「これは私の持論だが」

「はい」

「大切な人を失った者たちに必要なのは、人の死を理解することだ。縋ってしまうような人は向いていない」


 理解すること、という部分を成瀬さんはひどく強調して言った。理解すること。僕は優菜が死んだことをしっかり理解している。だからこそ上手く生きる方法がわからずにいた。


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