2-3「おいしいラーメン。」
麺二郎さん行きつけのラーメン屋は会社から歩いて五分の場所に建っている。この「ラーメン梵」はとにかく量が多く、野菜やニンニクなど無料のトッピングを楽しめるのが大きな魅力だ。それから社会人になった現在、昼休みという限られた時間のなかで食事を終えなければならないため、回転率のよさには助かっている。
この街に住んでいた高校生時代にはよく足を運んだものだ。いつの間にか店は改装され、あの頃の古びた風貌はもう見る影もないものの、濃厚でこってりとした毒々しいラーメンの味はいまも変わらない。
東京は家賃も物価も高く、一日を生き延びるのが精一杯だったため、地元を出てからはほとんどラーメンを食べなかった。一回当たりの食事にかける金額は、そのまま心の余裕に繋がっていると思う。そう考えると、僕の大学生活がジメジメとした陰鬱な四年間になってしまったのも仕方のないことだったと言える。
この日のラーメン梵は、運のいいことに、カウンター席にふたりぶんの空きがあった。麺二郎さんに続いて食券を購入し、真っ赤な丸椅子に腰を下ろす。食券をカウンターに置いた瞬間、顔に爆発的な量の湯気が飛来してきた。
「麺、硬めで」
「あ、僕もお願いします」
麺を固ゆでにしてもらうのは麺二郎さんのこだわりであり、そして布教された僕もその魅力にどっぷり浸かってしまった。歯ごたえのある太麺が食後の満足感を何倍にも増幅させるのだ。
それからもうひとつ、麺二郎さんには「トッピングを一切妥協しない」というこだわりがある。一度だけ彼に促されるまま最大量のトッピングを注文して、ただでさえ多い麺と同量以上の野菜が盛られて出てきたことがあった。これに関しては一度痛い目を見たため、それ以降はきちんと自分が食べられる量のトッピングを選ぶようにしている。
「初めての面談、どうだった?」
「うーん、なんか、場の雰囲気に飲まれちゃいました。重たい空気というか、内容が内容なんで」
ふたつ注いだお冷やのうち片方を差しだすと、「お、ありがと」、麺二郎さんは弾けるような笑顔で礼を言い、すでに結露ができ始めたグラスを受け取った。それから水を半分ほど飲んでから、「いやあ、わかるわあ」、しみじみとした表情で続ける。彼ほど大雑把な人間でもそうだったのか、と失礼なことが言語中枢をよぎった。
「俺みたいな大雑把な人間でもそうなったからなあ」
「そ、そうだったんですね」
心に浮かんだことをそのまま言うので、一瞬、彼には思考を読む能力があるのではないかと疑ってしまう。どちらにせよ、彼の表情に僕を責めるような色は浮かんでいなかった。
「成瀬ちゃんの面談、マニュアルと違ったでしょ?」
「はい。カウンセリングみたいなことしてました」
「たぶん、成瀬ちゃんなりに考えた結果なんだろうな。かける言葉ひとつひとつに営業件数一位の秘密が隠されてる。成瀬ちゃんの元で勉強したらすぐに出世できると思うよ。あ、でも、雰囲気に慣れるのが先だな」
「成瀬さんには『向けるべき感情は同情じゃない』って言われたんですけど、難しいですね」
僕がそう言い終わるよりも早く、麺二郎さんは周りのすべてをかき消すほどの音量で笑った。彼の笑いが収まったあとは、どういうわけか換気扇や水の沸騰する音が際立って聞こえる。「よく言うわあ」残りの水を煽ってから麺二郎さんが言った。
「成瀬さんも最初はそうだったんですか?」
意外だった。人の心を無くしたように見えるあの人でも、そういう感情に心を重たくすることがあるらしい。
「最初どころの話じゃないよ。成瀬ちゃんが入社したのはたしか五年前だろ? で、俺が入ったのが三年前だけど、そのときも応接室から出てきたときは普段よりも死んだ顔してたよ。少なくとも二、三年は割り切れなかったんじゃないかな」
「えっ? 麺二郎さんって、成瀬さんと同期じゃないんですか?」
互いに敬語を使っていなかったため、てっきり彼らは同期であるものだと思い込んでいた。麺二郎さんは一度目を丸くしたあと、「あー、違う違う」、今度は店の空気を揺らすみたいに笑った。心なしか、店内の温度が上昇したような気がする。
「俺のほうが二つ年上で、でも成瀬ちゃんは二個先輩だろ? だから上手いこと相殺してお互い敬語使わなくていいんだよ」
「なるほど?」
おそらくこれは麺二郎さんのなかにだけある理論なのだろう。とはいえ成瀬さんは年功序列にこだわらなさそうだから、案外そういう付き合い方が正しいのかもしれない。今度は思い切って僕もタメ口を使ってみようか。いや、間違いなく殺される。身体じゃなくて心が。
それにしても、成瀬さんが面談で落ち込んでいた過去があったとは意外だった。長い間そうしてきて、苦労の末に身につけたのが同情しないという方法だったのかもしれない。
「トッピングは」
低い声をした店主がぶっきらぼうに訊いてくるのに麺二郎さんが「全部多めで」と答えて、僕が「野菜だけ少なめでお願いします」と続ける。店主はそれに返事をすることなく、僕たちのラーメンに野菜を盛り始めた。
高校生のころは「無愛想なヤツだな」と思っていたが、大人になった今はこれくらいの距離が心地いいと感じるようになった。完全な他人だからこそ、余計なことを考えずラーメンに集中することができる。
この考え方はバーチャルヘヴンの面談に通ずる部分がある、と気づいた。ほどなくして出てきたラーメンは初夏の暑さで鈍った食欲を刺激するのに充分すぎる匂いを発していた。
「――死人を生き返らせようなんて、どうにかしてる!」
その声を耳が拾ったのは、スープに沈めた箸がなかなか麺を掬い上げなくなってきたころだった。麺二郎さんはすでに食べ終えていたようで、僕に合わせてくれているのか、スープと水を交互に飲んでいる。店の外にいる声の主は、どうやら通話口に向けて言葉を発しているようだった。
「あんな胡散臭い企業を使うべきじゃない!」
胡散臭い企業、死人を生き返らせる。このふたつのテキストからバーチャルヘヴンの話をしていると推測するまでは簡単だった。麺二郎さんも声に気づいたのか、彼のスープに落っこちていた視線がゆっくりと背後へ移動していく。彼がすぐに正面を向き直ると同時、「死んだ人間にいつまでも縋るべきじゃない」、呆れたような、それでいて悲哀を含むような声が聞こえてきた。
「食い終わったか?」
覆い被さるように聞こえてきた麺二郎さんの声は、背後で未だに通話を続ける男とは正反対の音色をしていた。「あ、はい」、僕の声はちょうど真ん中くらいだったように思う。
「じゃあ順番待ってる人もいるし、会社、戻ろうぜっ」
「はい」
食器をカウンターに上げて、それからテーブルを備え付けのふきんで拭った。「ごちそうさまです」を言い終わるころには男も電話を終えていて、店を出るとき、目が合ってほんのすこし気まずかった。
空にはやっぱり、梅雨らしい雲は一切浮かんでいなかった。点在する雲はごく稀に太陽を隠し、地面に大きな日陰を作りだしている。陽射しと湿度は夏らしさを帯びているのに、それ以外は春に取り残されているような気がした。
「胡散臭い企業かあ……」
言葉が漏れる、みたいに麺二郎さんが言った。
「ひどい言いようでしたね」
「まあ、たしかに胡散臭くはあるな」
専門的な内容や死者を復元する仕組みを知ったから違和感を失ってしまったが、男が言っていたとおり、「死者を生き返らせる」という言葉だけを聞けば誰もが怪訝な顔をすることだろう。あの暗い部屋で初めてバーチャルヘヴンのことを調べたとき、僕だってあの男と同じ顔をしていたに違いない。
「でも俺は、バーチャルヘヴンは人にとって必要不可欠な会社だと思うけどなあ」
たしかにバーチャルヘヴンは人の心を救う会社だと思う。胡散臭さも一部の情報だけしか知らないからそう感じるだけで、死者の脳から記憶を復元する仕組みや厳格な契約手続きを見ればそんな考えはなくなるはずだ。
人はたぶん、ひとりで生きていくことはできない。それは人と人とが支え合うとか思い遣りの社会とかそういうものではなくて、もっと心の深いところにある、拠り所、みたいなものが必要なのだと思う。
「悲しみに浸り続けるんじゃなくてさ、前を向くには死者を生き返らせることも時には必要なんだよ、たぶんな。俺だってバーチャルヘヴンに救われてる。まあ、下っ端に難しいことはわかんねえよ。俺たちはお客さんが望むことを叶えてやればいい」
「たしかに、そうかもしれないですね」
「だろ。共感してくれたから缶コーヒー奢ってやるよ」
「え、ありがとうございます」
うちの部署に存在するはずの暗くて重たい空気は、もしかしたら麺二郎さんの明るさが払拭してくれているのではないかと思う。彼がいなかったら僕は未だに死人のような顔をしていたことだろう。
ラーメン屋で男が口にした言葉を真に受ける必要はない。しかし、「死者にいつまでも縋るべきじゃない」という言葉だけは、どれだけ思考を巡らせてみても否定することができなかった。
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