2-2「遠くて近い、光のなか。」

 漠然と、大切な人を亡くした人間は光のない目をしているものだと思っていた。山中夫婦の顔に滲んだ表情は、そこらですれ違う人たちとほとんど変わったところがない。バーチャルヘヴンで再会できることを知って光を取り戻したのだろうか。


 大切な人が死んでしまったとき、絶望というより、憂鬱がかたちになって身体に現われる、ということが起こるのだと思う。


 心から沁みだした憂鬱によって筋肉は硬直し、表情を上手く動かせなくなってしまう。優菜が目の前から姿を消したとき、鏡のなかの僕はたしかに表情が凝り固まっていた。


 応接室はほんのり冷房が効いていた。空気の冷たさが、そのまま場の雰囲気に直結しているような感覚がある。僕たちが椅子を引いて正面に腰掛けるまでの間、空調の微かな機械音が室内の空気をやさしく揺らしていた。


「では、面談を始めさせていただきます。まず、差し支えなければバーチャルヘヴンを利用することになった経緯をお聞かせください」


 手元の資料をめくりながら、成瀬さんが落ち着いた声で言った。机を挟んで漂う、死、みたいな空気に飲まれた思考の端っこで、この声は入社から二ヶ月のなかで一番感情がこもっている声だと思った。


 さきほどまで読み込んでいたマニュアルに、バーチャルヘヴンを使うようになった経緯を聞くという項目はない。おそらく成瀬さんが営業を進めるに当たって独自に編みだした手法なのだろう。


「……自慢の息子、だった」


 山中の言葉が止まり、その瞬間、自分の心臓の音が鮮明に聞こえた気がした。今回の依頼は、彼らの息子を仮想空間に復元するという内容だ。そういう基本的な情報は、面談の前に受け取る「予約票」から大体把握することができる。


「実家を離れてからも、私たちの誕生日には毎年欠かさずに贈り物をしてくれるんです。それだけでなく、父の日まで毎年……それなのに……」


 山中はそこで感極まったのか、言葉の最後はほんのすこし、震えを帯びた声になっていた。空調はいつの間にか、腹の底に溜まるような、低い音を奏でるようになっている。その音の隙間から、応接室の前を横切る足音が聞こえた。続けて自分の、息をのむ音がした。


「過労死されたんですか」


 視界の端で、成瀬さんは山中をじっと見つめたままそう言った。彼女の声色からは、話の先を促すというよりは、山中が言いたいことを噛み砕く、という意思が窺える。


「……はい。どうして死ななければならなかったのか……。私は言ったんです。『身体を壊すくらいなら、実家に戻ってこい』って」

「そうでしたか。それで、息子さんは?」

「『俺が抜けたら、同僚と部下が苦しむから』、と」

「……優しい息子さんだったんですね」


 あと少しちいさかったら聞き取れないくらいの声量で、「……はい」、山中が言った。身体が、座板に沈んでいくような感覚に襲われる。人の死に直面するということを、僕は久しく忘れかけていた。僕が感情を整理するよりも早く、「だから」、山中が口を開く。


「私は息子が勤めていたあの会社の、悪事を暴いてやりたいんです。息子がどれだけひどい環境で働かされていたか、どれだけ苦しい思いをさせられてきたか……。そして、息子の頭を撫でてやりたい。よく頑張ったな、って」


 山中夫婦の背後、つまりは僕たちの正面にある窓の反射で、成瀬さんの口を開いてすぐに閉じる様子が見えた。その表情は、僕の誤りを正すために小言を口にするときと似ていたような気がする。結局、彼女は頭のなかの内容を声に出さないという判断を下したようだった。


「私はただ秀平に、平均的な生活をして、ちいさな幸せを積み重ねて、普通の人生を歩んでほしかった」


 大切な人との時間を提供する。それが株式会社バーチャルヘヴンの企業理念だった。現実世界ではなくとも、死んだ家族や恋人と過ごす時間は、残された側にとってこれ以上ない拠り所となり得る。


 バーチャルヘヴンに復元された人物というのは、生前の記憶を学習した人工知能に過ぎない。それでも彼らにとっては、それ以上の意味があるのかもしれなかった。


 ふと、脳裏に「優菜をここに復元することができたら」という考えが浮かんだ。いや、実現したとしても、僕が会話をする相手は電子的な処理をされた何者かでしかない。それでもたしかに僕は、もう一度優菜に会って謝りたいと願ってしまっていた。


 優菜が死んだのはもう七年以上も前だ。彼女の死体は灰になってしまっている。記憶を読み取ることはできない。


 でも、仮に優菜を復元できるのだとしたら、僕はそれを実行するだろうか。唯はどうだろう。優菜の死から間もないとき、唯はまともに会話ができない状態だった。それほど僕たちは彼女が好きだったし、大切だった。


 僕が思考を繰り広げている間に、面談は、いつの間にか書類に関する話に移っていたようだった。


「――利用規約の説明は以上です。それから、こちらが見積額になります。初回費用は記載のとおりで、一年ごとに更新料を請求させていただくかたちになっております」


 成瀬さんは強いなと思った。仕事とはいえ、大切な人が死んだという話のあとに金銭の話ができるようになるまで、途方もない時間を要することになりそうだった。彼女のように、仕事は仕事と割り切る必要があるのかもしれない。


「金額が金額ですので、いま決めていただかなくても結構です。一週間後にこちらからご連絡を差し上げますので、その際にご契約するか否かをお聞かせください。ご契約の場合、数日以内にお手続きの場を設けさせていただきます。何かご不明点はございますか? なければ本日の面談はこれで終了となります」


 最初と同じ柔らかい口調で礼を言うと、山中夫婦はゆっくりとした足取りで応接室を出ていった。彼らを見送るために下げた頭を戻したとき、成瀬さんが「医師による遺体利用許可証の発行について」と書かれた書類を抱えているのが見えた。


 もしかしたら僕は軽視していたのかもしれなかった。自分が死に触れる職に就いていることを、どこか他人事のように考えていた。あのオフィスが明るい声で彩られているのが不自然に思えてくる。


「夕陽」

「は、はい」

「彼らに向けるべき感情は同情じゃない」

「え、なにがですか」そう訊き返すよりも早く、成瀬さんは僕に部屋の片付けを命じ、応接室を出ていってしまった。行き場のなくなった言葉を飲み込み、机を元の位置へと戻していく。彼女が出ていった扉を眺めていると、不思議と彼女の言いたいことを理解していくような気がした。


 成瀬さんの言葉はきっと正しかった。死という繊細なものを扱うからこそ、さっき行われたやりとりを仕事と割り切る必要がある。


 成瀬さんは依頼人を冷たく切り捨てているわけでも、かといって打ち解けているわけでもなかった。彼女が高い契約件数を誇る理由はそこにあるのかもしれない。決して同情しないからこそ、こういう場でしっかりと仕事人としての任務を全うできる。


 言うのは簡単だが、実行するのは一筋縄ではいかない。応接室の片付けを終えてエレベーターに乗っても、考えが纏まることはなかった。僕の思考が「死」から逃れられたのは、昼休みに入り、麺二郎さんに「ラーメン行こうぜ」と話しかけられてからだった。


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