第2章『どうかそばに、縋ってしまうほど。』

2-1「無愛想と甘味料。」

 入社から一ヶ月が経つころには研修もあらかた落ちつき、自分のデスクで雑務をこなす時間が増えるようになってきた。雑務というのは、伝票の処理や書類に不備がないかの確認など、大しておもしろみのない内容ばかりだ。それでもオフィスで過ごす時間が増えたことによって、他の社員と話す機会も増え、ある程度と言っていいくらいには馴染んできたように思う。


 しかし成瀬さんだけは別だ。仕事以外の話をほとんどしないし、そもそも勤務中に関係のない話を持ちかけようものなら「時間の無駄だ」という威圧的な視線を浴びることになるだろう。これは僕が自身の経験からでは得た知見ではなく、麺二郎さんの行動から取れた統計によるものだ。


 仕事をともにする以上、仲がいいに越したことはない。いや、仲がいいとは言えないまでも、気軽に話せるくらいの関係性は欲しいところだ。


 麺二郎さんとペアの里見さんという女性は、彼を邪険そうに扱うものの実際は仲がよさそうだし、事実、昼休みや仕事終わりなんかにラーメン屋へ出かけるふたりを目にすることがある。いや、これに関しては彼が誰でもラーメンに誘う要素のほうが強いのかもしれない。あっけからんとした顔で「社長とラーメンに行ってきた」と話していたときは本当に驚いた。


 とにかく僕は、まず成瀬さんを知るところから始めることにした。とはいえ、僕にできることと言えば、彼女のちょっとした行動を観察する程度だった。


 成瀬さんは出勤時間のギリギリにやってきて、それから必ず定時になると荷物をまとめ始める。そして意外にも、帰る前には毎回僕にも「定時だ」と声をかけていった。新入社員だから甘やかしてくれているのかもしれない。


 もちろん僕の希望的観測は見事に外れ、実際は、彼女曰く「夕陽が出勤してから帰るまでを監視するのが私の仕事だ。夕陽が帰らなければ私も帰れない」というのが正しいようだった。僕が彼女に「気遣い」というものを期待しなくなったのはそれを聞いてからだった。


 オフィス前面に設置されたホワイトボードには営業件数と成約率のランキングが掲示されていて、両方とも、その一位の部分に成瀬さんの名前が書かれている。人のよさと仕事の出来は比例しない。A4の部内報は僕にそのことを教えてくれた。


 相変わらず素っ気ない成瀬さんだが、観察してみてわかったこともある。彼女はどうやら甘い物を好んで摂取するようだった。コーヒーの横にスティックシュガーの残骸が無数に転がっているのを目にしたとき、なんとも言えない温かな感情が湧き出てきたのを覚えている。そんな甘酸っぱい思いさえ、彼女と言葉を交わせば蜘蛛の子を散らすように霧散してしまうのも、成瀬藍という女性を語る上で欠かせない性質だ。


 営業部の主な仕事は、「依頼人」から話を聞き、バーチャルヘヴン利用の契約を取り付けることだ。依頼人は、誰かを「仮想空間上に復元したい」という依頼を持ってきて、僕たちは金額の見積もりや利用規約などの説明を行う。研修の際、説明と契約は日を跨ぐことが多いと聞いた。


 初めて金額を見たときは、「うわ、高っ」とも「妥当だな」とも思った。死者を復元するという技術は唯一無二であり、簡単にできるようなことではないのかもしれない。初回の利用料金がそこそこの車一台と変わらないのも納得できる。とはいえ、これらの内容はすべて研修で得た知識であり、あくまで文章上のことでしかない。


 実際に僕が営業に参加することが決まったのは、入社から二ヶ月が経過したころだった。


「時間だ。付いてこい」


 パソコンでマニュアルを読み直していたところ、囚人を連れだす看守みたいな口調で成瀬さんが言った。いつの間にか面談の時間が迫ってきていたらしい。「あ、はい」パソコンを閉じるころにはすでに、成瀬さんは僕に背を向けて歩き始めていた。


 面談を行う応接室は、この会社が占有するフロアのうち一番下の階にある。僕たち営業部のフロアは最上階にあるため、ふたつぶん、エレベーターで降っていかなければならない。わずかな間とは言え、成瀬さんとふたりで乗るエレベーターにはなんとも言えない気まずさがある。たぶん、僕たちの他にそういう空気が同乗しているのだと思う。


 窓の外はひどく晴れ渡っていて、青く澄んだ空に、申し訳程度の雲が浮かんでいるだけだった。梅雨入りが報道されたというのに、ここ数日の空は依然として雨を降らせようとしない。廊下から側面の壁にかけて、窓のかたちをした日光が貼り付いている。


 雨が降っていたら不便だけど、心のどこかでちゃんとした梅雨を待ち望んでいる自分もいた。当たり前のことが当たり前に起こらないと、自分がきちんと現実を生きられているか不安になってしまう。


 おそらく、メタ認知では把握しきれない意識の外側で、自身とは関係のない部分に何か指標のようなものを探してしまっているのだと思う。廊下の空気がいやに湿っているのが唯一の救いだった。


「そこが応接室だ」

「あ……、はい」


 成瀬さんが立ち止まったのを見て、突然、ぐっと緊張が高まるのを感じた。接客業の経験がないわけではないが、学生のアルバイトと会社の一部として営業を行うのでは全く意味が異なる。頭のなかに、面談用マニュアルの、最初の文が浮かんだ。お客様は大切な人を亡くされ、精神的に落ち込んでいる場合がほとんどです。会話の際は慎重に言葉を選んで伝えましょう。


「夕陽は余計なことをしなくていい。隣で黙って座っていろ。それと、然るべきタイミングで頭だけ下げろ」


 成瀬さんは真っ黒な瞳のままそれだけ言うと、「失礼します」、続けて応接室の扉を軽くノックした。この人はきっと、言葉を選ぶということができないのだと思う。部長のように穏やかな言い回しができないものだろうか。


 不安と微かな苛立ちが湧き出てきたら、不思議と面談に対する緊張が収まっていった。一瞬だけ「自分の緊張を紛らわせるため、意図的に挑発するようなことを言ったのでは」という思考がよぎって、すぐ彼女に限ってそれはあり得ないという結論に至った。


 応接室にいたのは、予約票にあったとおり、五十歳くらいの男性だった。名前は山中誠一郎。隣にいる女性は彼の妻だろう。

「お待たせいたしました。今回、山中様を担当させていただく成瀬です」


 普段よりも一段階だけ高い声で名乗りながら、成瀬さんは依頼者に名刺を手渡した。続けて、「こちらは同じく担当の夕陽です」と僕のほうを指すので、これは然るべきタイミングだと思い、気持ち深めに頭を下げる。山中夫婦は「よろしくお願いします」と、秋の山道を想起させる優しい声で言った。

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