1-3「バーチャルヘヴン。」
就職が決まってからは研修で忙しい日々が続いた。思い返してみれば、卒業論文なんかより会社の研修に時間を吸われていたと思う。
無事に大学を卒業するためにはアルバイトを辞める必要があったものの、研修で発生する賃金と仕送りのおかげでなんとか収支を合わせることができた。
株式会社バーチャルヘヴンは、ENT技術を使って死者から記憶を読み取り、記憶データを人工知能に学習させることで「バーチャルヘヴン」という仮想空間に死者を復元している。バーチャルヘヴンは完全没入型デジタル環境の仮想空間であり、死者たちとの会話だけでなく、彼らと直接触れ合うことも可能だ。とはいえ、復元された死者は、あくまで人工知能の処理によって行動しているだけに過ぎない。
研修では企業理念や組織概要、仕事の内容に関する説明が多くを占めていたが、ENT技術についての座学も少なからず受けることとなった。
死者の脳細胞と神経伝達物質の電子的な軌跡などを分析し、記憶領域をデータとして読み込む。専門用語をたっぷり使って説明されたので、僕が理解できたのはそういった大まかな流れだけだった。なんとなく取っていたノートには「手続き的記憶」やら「忘却の干渉説」やら、それっぽい単語が並んでいたものの、そのうち吸収できた内容は一割にも満たないだろう。
そして何より、これらの説明から僕の耳を遠ざけたのは、記憶の読み取りは外部の専門家に委託しているという仕組みだった。この座学だけノートを取っている人が極端に少なかったのは、新入社員たちが脳の効率的な使い方を知っていたからだろう。
出社初日の朝は、布団がいつもの何倍も重たくて、ベッドを出るのが大変だった。
やっぱり採用は何かの間違いだったのかもしれない。そう思って何度かメールを見返してみたが、採用通知が来ていることに変わりはなかった。何か特定の条件を満たせば真の文章が読めるのではないかと考えてみたが、メールを閉じたり凝視したりしてみても、「夕陽有里様の採用を内定いたしました」の文字が変化することはなかった。
よく考えてみればこれまで研修にも普通に参加できていたし、電話でのやりとりも行っていたのだから、採用が確定した事実を否定しようがなかった。それでも自分の記憶が幻覚だったのではないかと疑ってしまうのが僕という人間だった。
バーチャルヘヴンの本社は、駅から徒歩で一〇分の場所にあるビルの、三階から五階を陣取っていた。エレベーターの扉が閉まってから次に開くまでの、あのなんとも言えない静けさと緊張感にはどれだけ時間が経っても慣れそうにない。
三階でエレベーターを降りた先、受付前の大きなソファに部長の姿があった。彼とは何度か電話でのやりとりをしていたため、変に気張って接する必要はないとわかっている。
エレベーターの音で僕に気付いたのか、彼はこちらを振り返って立ち上がると、「今日からよろしくね」、そう言って右手を差しだしてきた。「おはようございます」を言うために開いていた喉をいったん閉じて、「よろしくお願いします」、できるだけはっきりとした声で言う。彼は、返事の代わりなのか、分厚い手でぎゅっと僕の手を握り直した。
「営業部のオフィスまで案内するよ」
「はいっ」
入社に当たって憂鬱だったことのひとつに、あの成瀬とかいう面接官の存在があった。面接のときの、彼女が大きく吐きだした溜息をいまでも脳内で再生することができる。自分が幻覚を見ているのではないかと疑ってしまう原因は、彼女が吐きだしたあの溜息にあるのではないかと思う。
とはいえ僕が所属することになったのは営業部だ。他者とのコミュニケーションを苦手とする自分がどうしてその部署に配属されたのかはわからないが、会社との連絡はメールばかりだったし、研修も基本的に動画を視聴するものばかりだったので、人事部の人間に僕の口下手が伝わる機会があまりにも少なすぎたのかもしれない。
面接官をしていた以上、彼女の所属は人事部と考えるのが妥当だろう。社内で彼女に会わないことを祈りながらオフィスへの扉をくぐった僕は、すぐにその考えが間違いだったと知ることになった。
はーい、注目。部長の声で、そこにいた十数人ぶんの視線がぞろぞろとこちらへ集まってくる。次に部長が言ったのは「彼が今日からうちに配属された夕陽有里くんだ」で、最後の言葉は「是非力になってやってくれ」だったと思う。
とにかく僕は、視線だけですべての人間を射殺してしまいそうな目でこちらを見る彼女のことで頭がいっぱいになり、部長の話をうまく処理することができていなかった。
「じゃあ、自己紹介を」
「……あ、は、はい。夕陽有里、です。よろしくお願いします、今日から、この部署に配属されましたっ」
思わず最後の撥音に余計な力が入って、すこし情けなくなった。少しの間を置いて疎らに拍手が鳴り始め、最後はひとつの合唱みたいになる。自己紹介が短すぎたせいで、みんな、拍手のタイミングがわからなかったのだろう。社員たちが早々にデスクに向き直ってくれなければ、恥ずかしさのあまり逃げだしてしまっていたかもしれない。
よりによって、どうしてあの人と同じ部署になってしまったのだろう。頭のなかにはそんな不満ばかりが浮かぶ。
「夕陽君。彼女が教育係の成瀬藍だ。実力のある人だから頼るといい。昨年期も成約率一位だったんだ」
「……えっ」
声が発せられた部長の口から空中を経由し、それから彼の手が差す先、さきほどまで冷めた目をしていた女性へと視線が着地する。
視覚と聴覚の両方で部長の言葉を確認してしまったため、僕はそれが現実であると認識せざるを得なかった。歯の裏にくっついた舌を剥がして紡いだ「わかりました」は、ほんのすこし、うわずった声になってしまった。
僕の机は、丁寧なことに、彼女のデスクに隣り合うように設置されていた。彼女の元へ向かう数メートルが、やけに長く感じる。僕がデスクに到着したとき、彼女はゆっくりと立ち上がった。
「成瀬藍だ」
「あ、夕陽有里です」
「さっき聞いた」
「……あ、はい」
そんなことを言ったら僕だってさっき部長から名前を聞いた。しかしそれを口にすれば何を返されるかわからなかったため、頭に浮き上がった言葉を仕方なく飲み込む。比喩表現などではなく、彼女の目には僕の想像を絶する残酷なことを平気でこなしそうな圧力があった。心のなかで何か悪口を浮かべても、見透かされそうな気がする。
「成瀬さん、採用していただいてありがとうございます」
「私は採用を見送ったはずなんだけどね」
くるり。彼女はノートパソコンのほうへ向き直ると、それきり言葉を発しなくなった。あ、仲良くできないな、と思った。
その後、入社初日はオフィスの使い方や出退勤に関する研修があり、幸運なことに、彼女と話す機会は全く訪れなかった。ここで言う話す機会というのは「やむを得ず言葉を交わさなければならない機会」のことであり、無駄な日常会話に花を咲かせるタイミングのことではない。つまり、隣り合ってデスクに着く場面は何度かあったものの、僕たちは互いに言葉を交わすようなことはしなかった。
ひとつ意外だったのは、そんな彼女にも昼食の誘いをする人間がいるということだった。
「成瀬ちゃん、ラーメン行かない?」
彼女に声をかけたのは、元気を絵に描いたような刈り上げの男性社員だった。誰にでも陽気に話しかける、子犬のような雰囲気が印象的だ。いや、体格がいいからどちらかといえば大型犬か。案の定、成瀬さんは「行かない」と振り向きもせずに言った。
「新人くんはこのあと研修か。また今度だな!」
彼がそう言ってからようやく、この大型刈り上げ犬は誰にでも声をかける犬種なのだと理解した。それにしても、成瀬さんにまで声をかけるなんて心が強いと思う。
この大山健二郎という社員は、よく同僚をラーメンに誘うことと名前の健二郎をかけて、「麺二郎」と呼ばれているらしい。これは資料の場所を聞いたとき、彼自身が併せて教えてくれた内容だ。
その日は定時を迎える直前、部長が「今日は夕陽君の歓迎会をしよう」と言った。部長自ら近くの居酒屋を予約してくれたらしい。
「準備できた人からビルの前に集合してね!」
書類の提出やデスク周りの整理などに時間が掛かってしまい、僕が合流するころにはほぼ全員が揃っていたようだった。そのなかに、成瀬さんの姿は見当たらない。
「あれ、成瀬さんは?」
無意識のうちに零れてしまった僕の疑問を、優しく拾い上げてくれたのは麺二郎さんだった。
「成瀬ちゃんは来ないよ」
「ああ……。慣れ合わない、みたいなことですかね」
軽い皮肉のつもりで紡いだ言葉に、麺二郎さんは空気を丸ごと震わせるみたいに笑った。「うるさいぞー」「また麺二郎が騒いでるわ」、笑い声で集まった視線たちから、呆れと冗談が半分ずつ、みたいな言葉が投げ込まれる。彼はまんざらでもなさそうにまた笑った。
「いや、定時過ぎてるからな。前に誘った時さ、『勤務時間中かつ給料が出れば行くんだけどな』って!」
麺二郎さんは真顔をして、それからほんの少し裏声の混じった声で言った。おそらく成瀬さんの真似をしているのだろうけど、全然似ていないのがおもしろかった。笑いながら、成瀬さんでもそんな冗談を言うんだ、と思った。
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