1-2「意味のない時間稼ぎ。」

「自分の意見をはっきり言わないから悪いんだよ、有里は」


 注ぎ口の長い薬缶のような器具でコーヒーを淹れながら、唯は自分が世界でいちばん正しい、みたいに言った。三つ隣のカウンター席に座っていた客が顔を上げるくらいには声が大きかったようで、厨房の奥でパスタを茹でていた彼女の父親が注意するみたいにこちらを見ている。


「唯は就活してないから言えるんだよ。あれは人の精神を削るの」


 就職活動、というより社会の仲間入りすることは、自分がいかにも無害な人間かを証明し続けなければならないことのように感じる。そしていつの間にか死を目前とした年齢になっていて、こんなはずじゃなかったと呟くことになるのだ。人はたぶん、有意義に死ぬために生きている。その証明の過程では、有用さと無害さは同義であるとされている。


「私がやったら有里よりは上手くいくね、間違いなく」


 彼女の自分勝手な意見に反論しようとした直後、テーブル席の客に呼ばれた彼女は「はーい」と必要以上に大きな返事をして、軽やかな足取りでカウンターから出ていってしまった。口のなかで持ち上がった舌のやり場に困り、仕方なくコーヒーカップに手を伸ばす。


 彼女に会うのは久しぶりだった。少なくとも大学にいた四年間は顔を合わせていない。唯は半分趣味のイラストレーターをしつつ、両親が経営するカフェを継ぐためにここで働いているようだった。羨ましいと思う反面、常連の客と会話をしなければならない億劫さに可哀相だと思う部分もある。いや、彼女ならそこら辺を簡単にやってのけそうだ。


 喫茶ナカムラは唯の両親が立ち上げたカフェで、薄暗い照明と古びた内装が特徴的だ。それから、ここのコーヒーは美味しい。唯の幼馴染ということで、高校生のころは受験勉強に使わせてもらっていたこともある。


 受験勉強をして東京に行き、四年も大学に通って得た結果がこれだ。死者を蘇らせる企業の面接で「本当にそう思っていますか?」と聞かれて戸惑い、数日後には不採用通知が送られてくる。中学生三年生までの自分はこんな未来を想像していなかったはずだ。少なくとも、幼馴染の訃報を聞くあの日までは。


「で、なんで来なかったの。四年間も」


 いつの間にか、唯がカウンターへ戻ってきていた。なんで来なかったの。言葉はそれだけだったが、彼女の伝えたいことは充分に理解できた。店内の空気はひどく乾いている。それなのに、スーツの内側はまだ湿っているような気がした。


「なにが」


 意味のない時間稼ぎだった。


「優菜の命日」


 コーヒーの水面越しに、眉をひそめる唯の顔が見える。


 この街を出るまで、僕と唯は優菜の命日になると欠かさずに墓参りをしていた。東京に行ったきり、僕は優菜の墓参りどころか帰郷すらしていない。


「すこし遠かったし」

「一時間しかかからないけど。有里が住んでる場所からここまで」

「行こうとは思ってた」

「そう」


 唯はそれ以上僕を追求しなかった。僕の前に氷と水の入ったグラスを置き、一口も手を付けていない古いグラスを回収する。結露はできていなかった。顔を上げた先に唯はもういない。離れた場所から、「はーい、ブレンドコーヒーね!」という、唯の明るい声がした。


 大切な人の死を乗り越えるのに最も簡単なのは、完全に距離を置いてしまうことなのだと思う。なるべく思いださないようにするための環境作りが必要だった。「さみしがってるよ」、目の前を通るとき、唯は目も合わせずにそう言った。


 人はなぜ死者を弔おうとするのだろう。だって、当人はもうこの世界にいないのだから、そんなことをしても無意味じゃないか。いや、「この世界」という表現がそもそも間違っている。行き着く先は「無」だ。意識がなくなって、人は存在しないことになる。


 東京に戻ってからはほんのり暑い日が続いた。やはり、あの街に帰るべきではなかった。次からはちゃんと会社の場所を確認してから面接を受けよう。どうせあの会社も不採用だろうから当分はあの街に帰る必要がないはずだ。そう考えていたのに、僕のスマートフォンは「採用を内定いたしました」と書かれたメールを受信するから本当に嫌になる。


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