破 伝説の一夜

 

 骸人の時代が終わり、二百と有余年。


 人の時代が到来し、帝国は憲法を定めた。


 その中で物議を醸しているのは憲法9条の条文。


『特定外来種に対する武力の行使を認め、一切の権利主張を認めない』


 本来は、帝国に甚大な被害をもたらした、骸人を想定した措置。


 しかし、条文の解釈の広さから、予期せぬ迫害を受ける者たちがいた。


「急いでください。早く、早くっ!!」


 宮崎県。延岡市。深夜の海岸には、鬼気迫る声が響く。


 長い金髪をサイドテールをした紅白の巫女服を着た女性。


 かつて、骸人の世を終わらせた英雄の一人。ナナコだった。


 額には黒い二本の角が生えた状態。いわゆる、鬼の姿のまま。


 背後には、その同類とも言える鬼たちが夜の海岸を走っていた。


 数は五十弱。鬼の生き残りのほぼ全員が、この場に集まっている。


「……ナナコ様、もう足が」


 その一匹。白い巫女服を着た、水色髪の女鬼がいた。


 苦しそうな声を上げ、左足を引きずるようにして、走る。


 左大腿部は鋭利に斬られ、少なくない血液が流れ落ちていた。


「港神社までたどり着けば、治外法権です。粘ってください!」


 担げるような余裕は、今のナナコにない。


 両手の筋を斬られ、力がろくに入らない状態。


 出血もひどく、鬼の治癒力が間に合っていなかった。


 そんな絶体絶命の状況の中、見えてきたのは、青い鳥居。


 港神社の目印。鬼たちにおける、大使館のような場所だった。


 敷地内にさえ入れば、神社の庇護下。うかつに手出しはできない。


「おいおい、釣れないじゃないの、お嬢さんたち」


 そこに現れたのは、髭面黒髪の中年男。


 青い制服を着て、肩には刀を担いでいる。


 背後には、数百人の部下たちが並んでいた。


 全員揃いも揃い、同じ制服に袖を通している。


 その理由は、一つ。同じ組織に属しているから。


 組織の名も、成り立ちも、歴史も全て知っている。


「滅葬志士……っ!」

 

 青い鳥居は、すぐ近くに見えている。


 それなのに、遠い。あまりにも遠すぎる。


 立ち塞がるのは、かつて、所属していた組織。


 今や鬼狩りの集団と化している、隠密部隊だった。


 しかも、人数から考えて、かなりの戦力を割いていた。


「そう睨みなさんなって。角を差し出せば、手荒な真似はしないから」


 中年男が刀を突き出し、示すのはこちらの角。


 必要じゃなかったなら、いくらでもくれてやる。


 でも、これは、鬼の生命維持に必要不可欠なもの。


 人で言うところの脳や、心臓と、同じ価値があった。


「……それができれば苦労はしません。押し通らせてもらいます!」


 だからこそ、今は一歩も引くわけにはいかない。


 手が満足に動かせなかろうと、全面抗争になろうとも。


 鬼を一匹でも多く救う。そのためには戦う以外、道はなかった。


 ◇◇◇


 青い鳥居の前。港神社近辺で繰り広げられるのは、抗争。


 人と鬼。互いの存続をかけた、不毛な戦いが繰り広げられていた。


「……ここまで、ですか」


 傷だらけのナナコは、膝を折り、悔しげに述べる。


 体力も気力もここが限界。腕も足も上がらなかった。


 それに従うように、周りの鬼たちも抵抗をやめていた。


「手負いにしてはよくやったんでない?」


 頬の擦り傷を指で拭い、中年男は敵を賞賛する。


 滅葬志士側の隊員に負傷者はいても、死者はなし。


 一方、鬼側は、死闘の果てに、数匹が絶命していた。


 大敗だった。人数差はあれど、あまりにもひどい戦果。

 

 そんな状態に陥ったのには、当然ながら、原因があった。


(やはり、不殺には、無理がありましたね……)


 ナナコが立てたのは、不殺の誓い。


 人を殺さないという、唯一のルール。


 それを目の届く範囲で遵守させていた。


 今回、その誓いが裏目に回った形だった。


「さぁって、お前たち、鬼の健闘を讃え、楽に死なせてやれ」


 中年男の号令と共に、それぞれが刀を構えていく。


 狙いは、鬼の角。斬り落とされれば、まず助からない。


「……ごめんなさい、皆さん。私が不甲斐ないばっかりに」


 もう逆転の手立ては残っていない。


 胸の内にあるのは、やるせない気持ちだけ。


 多勢に無勢を覆せるだけの強さがあれば勝てていた。


 でも、ないものねだりをしたところで鬼の未来は変わらない。


 だったら諦めて、苦しまないように殺される。それが一番マシだった。


(ツバキ様……せめて、もう一度だけ、お会いしたかった……)


 目を閉じ、思い浮かべるのはかつての主。


 気品があって、優雅で、聡明な、憧れの存在。


 近付くための努力はしたけど、後一歩が届かない。


 所詮は鬼の夢。夢半ばで倒れる運命なのかもしれない。


「悪いが、人の心の平穏を守るため、死んでもらおうか!」


 滅葬志士の隊長格。中年男の声が聞こえる。


 人のために天下を取り戻し、人のために殺される。


 とんだ皮肉だった。話せばきっと分かり合えるはずなのに。


「――」


 しかし、いくら待っても痛みはやってこない。


 異様な静けさと、波の音だけが、場に流れている。


(一体、何が……)

 

 ナナコは思い切って、目を開ける。


 そこに立っていたのは、短い黒髪の女性。


 青いセーラー服を着て、腰には刀を帯びている。


(滅葬志士……。仲間割れ、ですか……?)


 それも中年男の刀が、女性の首元で止まっている。


 明らかに異常な光景。普通ではないことが起きていた。


「誰かと思えば、千葉アザミか。新米がなんのつもりだ?」


 刀を下げながらも、脅すように中年男は問いかける。


 返答によっては容赦しない。そう告げているようだった。


「……よ、弱い者いじめをして、た、楽しいですか」


 目の前の女性。千葉薊と呼ばれた人は、たどたどしく語る。


 弱気で臆病な性格の新米が、思い切って上官に意見を申し出た。


 そんな胸が熱くなるような展開だった。だけど、世の中は甘くない。


「上官の命令は絶対だ。文句があるなら、隊を抜けろ」


 思った通りの一言を中年男は言い放つ。


 どんな組織であろうと、上の命令が優先される。


 最近、代替わりした滅葬志士は、特に強い傾向にあった。


「……わ、わたしが、抜けても、いじめる、つもり、なんですよね」


 それでも、彼女は食い下がる。


 底知れない、意地と熱量を感じた。


 明らかに、鬼の肩を持とうとしている。


(何が、彼女をここまで……)


 命令に背けば、どうなるかぐらい分かるはず。


 それを無視してまで、動こうとする何かがあった。


「だとしたら、どうする。親の七光り」


 そこで中年男が発したのは、悪口とも取れる言葉。


 その一言で、空気が少しピリッとしたのを肌で感じる。


 地雷を踏んだ。当事者じゃないけど、それだけは分かった。


「だ、だとしたら…………こ、こうします」


 すると、彼女はゆっくりと刀に手をかけ、抜く。


 現れたのは、赤黒い刀身。明らかに見覚えのある一振り。


(あれは、羅刹……。どうして、新米が天海の刀を……)


 新米が持つにしては、上等すぎる大業物。


 直接打ち合ったからこそ分かる、違和感だった。


「くくっ、はははっ。こいつは傑作だ。新米が指南してくれるらしい」


 中年男は馬鹿にしたように笑い、周りに言いふらす。


 釣られるように他の隊員たちも下品な笑い声をこぼす。


 これで、彼女を味方にするものは、誰一人いなくなった。


 ありがちな展開。ありがちな台詞。ありがちな絶望的窮地。


(物語なら、ここから逆転しますが、果たして……)


 ただし、それは空想上のものに限る。


 現実において、物語の常識は通用しない。


 新米の女性が数百人に勝てるわけがなかった。


「あははっはあっはははははあはははははぁぁぁぁあああああああああ」


 そんな状況で響いてきたのは、笑い声。


 頭のネジが外れたような狂った音を発していた。


(意趣返しのつもりですか……? いや、それにしては……)


 彼女の今の状態を示すには、ピッタリな言葉がある。

 

 狂気。正気を失い、常軌を逸した精神状態にあること。


 今がまさにそれだった。演じているようには、見えない。


「……おいおい。いつからそんなに偉くなった」


 敵意の目線が一気に、彼女に注がれる。


 中年男も例外ではなく、心底不機嫌そうに語る。


 一度下げた刀は、再び彼女に向けられ、一触即発の空気。


「いい機会だ。格の違いってやつを新米に分からせて――」


 上官が新米をいたぶる胸糞悪い展開が行われようとした時。


 嫌な風が吹いた。刀を振るった動作も、斬閃も見えなかった。


 だけど、一度食らった経験があるから分かる。これは天海の技。


「皆さん、頭を下げてっ!!!!!」


 鬼も人も関係ない。全員に向けた言葉をナナコは投げかける。


 その声にタイムラグ無しに従ったのは、味方である鬼たちだった。


 一方で、滅葬志士たちは聞く耳を持たずに、薄ら笑いを浮かべている。

 

「……やる、よ」


 だけど、すぐに思い知ることになる。

 

 中年男の飛んだ首と、鮮やかな血によって。


「うわぁぁぁあああああっ――――」

 

 一人の隊員が叫んだ。そのすぐ後に首が飛んだ。


「た、たすけ……」


 一人の隊員が逃げようとした。そのすぐ後に首が飛んだ。


「嫌だ……死にたくない。こんなところで死にたくな――」


 一人の隊員が半ば狂乱状態になっていた。そのすぐ後に首が飛んだ。


(夢でも、見ているのでしょうか……)


 不殺の誓いがあったとはいえ、あれだけ苦戦した滅葬志士の隊員たち。


 それを彼女は、千葉薊と呼ばれた人は、たったの一撃で葬り去っていた。

 

 この状況を示すのは一言しかない。彼女を言い表すには一言で十分だった。


「……英雄」


 直後、血の雨が降り、目の前の彼女は倒れ込む。


 その場にいた隊員は全員死亡。鬼たちは全員生還した。


 後に語り継がれる伝説の一夜。人と鬼の全面抗争は終幕した。

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