第6話 人身売買②


 見えるのは空と、地面。 


「――――っっ!!」


 着地した衝撃と重力が全身にのしかかった。


 その痛みに、思わず顔を歪め、歯を食いしばる。


「小僧が逃げた。追え、追えっ!」


 二階からは、そんな声が聞こえてくる。


(痛い……けど、なんとかなった! 後は外で誰かに助けてもらえれば)


 わずかに見えた希望に縋りながら、少しずつ体を動かしていく。


 細い路地を虫のように進み、商店街の大通りに出ると、大勢の人が歩いていた。


「んんぅ――んんんぅぅ!!」


 蔦で縛られた口で、人目につくように、大声で叫んだ。


 だけど、何事もなかったかのように、通りにいる人たちは素通りしていく。


「んぅ――んんんんっぅぅう!!」


 それでも声を上げた。きっと優しい誰かが助けてくれる。


 そう思って、口元はよだれまみれになりながら、必死で声を張り上げた。


「邪魔だ。どけ」


「んぐっ!」


 しかし、思いは通じない。石ころのように一蹴される。


(違う。ここはそんなに甘い世界じゃない……)


 そこで、肌身に染みて理解した。ここがどういう場所なのか。


(自分以外、誰も信じちゃいけないんだ)


 刑法も、規則も、常識も存在しない。ミアの言葉が心に突き刺さる。


「――いたぞ、こっちだ」


 気付けば、数人の男に囲まれ、正面には眉をひそめた小太りの男。


「謝罪しろ。そうすれば許してやる」

 

 カモラは懐から取り出したナイフで、口を縛る蔦を切り、そう言った。


「……げほっ、げほっ。どうして、こんなひどいことを平気でできるんですか」


 相手にも何か事情があるのかもしれない。


 そんな、ささやかな希望を持ちながら、尋ねる。


「どうしてだと? 決まってるだろ。――俺のためだ」


 カモラは不機嫌そうな様子で、告げる。


 思っていた通りの答え。相容れないと思わせる、決定的な言葉を。


「答えてやったぞ。次はお前の番だ。とっとと、謝罪しろ」


「……い」


「あ? なんだ、聞こえんぞ」


「……ない」


「声が小さい。もう少し、はっきりと喋れ」


「謝らないって言ったんだ! 私利私欲のために人を奴隷にする人には!」


「こんの何も知らないガキが……っ」


 激昂したカモラは、ナイフを振りかざす。


(――やるしか、ないっ!)


 迫る刀身。そこに思い切って、後ろ手を突っ込ませた。


「――なっ!」


 カモラは、驚きの声を上げる。


 賭けだった。最悪、腕がなくなるかどうかの。


「……っ!」


 ぎゅっと目をつむり、痛みを覚悟した。


 けど、痛みはやってこない。かわりに、ぷちんという音が聞こえてきた。


(上手くいった!? ならっ!!)


 すかさず振り返り、解放された両手で切れた蔦をナイフに絡め、奪う。


「こんの!!」


 反撃に出るカモラの拳を避け、両足の蔦をナイフで裂き、体は自由になった。


「何をしてる! 早くこいつを取り押さえろ!」

 

 怒り狂うカモラを背に、すでに駆け出していた。右も左も分からない、商店街を。


(ここまではいい……でも、ここからどうしよう)


 人混みを避けながら、ジェノはあてもなく疾走する。


(路地に入れば巻ける……? いや、人混みがない場所は囲まれたら終わりだ)


 そう思考を回しながら、あえて人が多い通りを走り続けていく。


「天光の煌めきよ、彼の者を打ち払う雷槍と化せ。――ケラヴノス」


「――っ!?」


 思わず後ろを振り返る。突如、嫌な予感がしたからだ。


 10メートルほど離れた場所には、本を片手に持つ、カモラの配下がいた。


(まさか……)


 嫌な汗が背中を伝い、ジェノは空を見上げる。


 上空には、黒い雷雲。そして、ここは、ゲームの世界。


(まずい――っ!)


 雷轟。上空から放たれた雷槍が、ジェノを襲った。


「――――ッッッ!!」


 電流が背中から全身を駆け巡り、立っていられなくなる。


 回避行動をとったジェノだったが、雷の槍は背中に命中していた。


(ぐっ――うごけ、ない……っ)


 体を動かそうとするが、全く微動だにせず、足が否応なく止まってしまう。


(このままじゃ……)


 通りでは、慣れた光景なのか、誰も足を止めずに日常が続いている。


(……おかしいよ、こんな世界)


 白昼堂々と誰かが襲われていても、誰も手を差し伸べてくれる人がいない。


「命中した。捕らえろ」


 遠巻きからは、無慈悲で冷静な報告が聞こえてくる。


 人に騙され、人に裏切られ、人に蹴られ、人に追われる。


 手ひどい仕打ちを受け続け、心はとっくに限界を迎えていた。


(どうすれば、よかったの……)


 結果が伴わないのは全て自分が悪い。


 人を怨むな、身を怨め。


 養母の言葉が、心を蝕み、視界は涙で滲んでいく。


「賭博なら、カジノバグジー、カジノバグジーをどうかよろしくお願いするっす」


 そんな時、目の前には、看板を持った紫髪のバニーガールがいた。


 かつん、かつんと、特徴的なヒールの足音を立て、正面から近づいてくる。


(また、蹴られる)


 疲弊し、憔悴しきった心ではそう考えることしかできなかった。


「お? こんなところに幼気な少年が。何かお困りのようっすね」


 けど、そうはならなかった。目の前にいるバニーガールはなんと声をかけてきた。


「――っ」


 しかし、呂律が回らず、言葉を伝えられない。


「あー喋れないか。だったら、手を掴んでくださいっす」


 こちらの意を汲んでくれたのか、手を差し伸べてくれている。


 その言葉が荒んだ心に染み渡り、蜘蛛の糸を掴むような思いで手を伸ばした。


「……っ」


 しかし、掴めない。体が動かない。


 電撃の痺れじゃない。心が相手を拒絶していた。


(……信じた結果どうなった。裏切られたんだ。あの時、手を掴んだせいで)


 頭に浮かぶのは、ルーカスの手を掴み、裏切られた光景。


 無意識に拒んでしまう理由として、十分すぎるほどの出来事だった。


「ふーん、余計なお世話だったってことっすかね」


 つれない反応をするジェノに対し、バニーガールは手を引っ込めようとしている。


「あいつだ、取り押さえろ」

 

 けど、悠長に考えている暇なんてなかった。


 思考を重ねるうちに、追っ手の声が近くまで迫る。


 ――手を掴むか、掴まないか。人を信じるか、信じないか。

 

 どちらかを選ぶ。ただそれだけのことなのに、とてつもなく重く感じる。


(裏切られるのは、怖い。怖いよ、リーチェさん……)


 目をつぶり、諦め、思い縋る。信頼していた人物。

 

 すると、瞼の裏で重なった。去りゆく手が、リーチェの手と。


(………………違う。リーチェさんを信じて、俺はどうなった)


 巡る。素晴らしき日々。かけがえのない思い出。


(死んでない。こうして、生きている。リーチェさんを信じたから)


 巡る、巡る。記憶が巡る。想いが巡る。感情が巡る。


(だったら、答えは簡単だ。裏切られるとしても、俺は――)


 浮かぶ、胸の内の答え。唯一無二の選択肢。選ぶべき道。


(――人を信じる!!)


 手を伸ばし、差し出された手をぐっと掴んだ。自らの意思で。


「よっしゃあ! なら、安心してくださいっす。うちは、弱い者の味方っすから」


 掴まれた手を勢いよく引っ張り上げた紫髪の女性は、力強くそう言った。


「あーっと手が滑ったっす」


 軽快な声と共に、ぶんと風を薙ぐ音が聞こえた。


 その雄姿を見守るべく、ジェノは涙を拭い、前へ向く。


 すると、看板を振り回して戦う、バニーガールの姿がそこにはあった。


 首輪がないところを見ると、どうやら、このバニーガールはキャストみたいだ。


「こうなりゃ、うちは強いっすよ!」


 ぶんぶんと看板を振り回し、意気揚々と彼女は語る。


 だけど、その後、信じられないぐらいあっさりと、バニーガールは敗北した。

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