第49話 キミの笑顔のために

 清明先輩は決定的な場面での打撃技を避けている。

 ということは、そこから導き出される答えは一つ。


 ――清明先輩はこの試合で、俺に打撃を当てるつもりがない。


 そりゃそうだよな。

 真剣勝負とはいえ、年下の女子を殴り倒すのは、百合家の男として体裁が悪すぎる。

 もし顔に傷でも残したら、逆に先輩の経歴に傷が付きかねない。


 ──それ故に、晴明先輩の繰り出す打撃は全てフェイント。


 それが分かっているだけで相当なアドバンテージだ。飛車角落ちみたいで少し卑怯な気もするが、今はその弱みに全力で付け込ませてもらう! 


「くっ!」


 清明先輩の連撃に、俺は右膝からバランスを崩す──


 ――ふりをする。


 当然その隙を見逃さない清明先輩。

 鋭い右の掌底が俺の顎先を狙う──が、その手は急激に狙いを変え俺のえりを掴みに来る。


 やっぱり予想通りだ! 

 そんで狙いはお得意の背負い投げだろ!?


 分かっていなければ到底対応できない見事なフェイントだった。

 だが、最初からそうと分かっていればどうという事は無い。


 それは刹那の応酬。

 襟を掴まれる直前、俺は左手で清明先輩の右手小指を捕らえる。

 指は代表的な人間の急所。

 鍛えようにも鍛えることができない最大の弱点一つ。


「さあ、どうするよ? そのまま俺を投げれば間違いなく先輩の小指はボキッといくぜ」


 と、自分の優位を確信した次の瞬間――──世界が回った。 


「なっ!?」


 気付いた時には、俺の身体は宙に浮いていた。

 ボキリと、清明先輩の小指が折れる鈍い音が響く。

 だが、それと同時に、俺の身体が激しく床に叩きつけられた。


「がはぁっ!」


 強烈な衝撃に身体がきしむ。

 脳が揺れる。視界が明滅する。

 白姫と梓川先生が何かを叫んでいるがよく聞き取れない。


「ティアちゃん!」 


 そんな中でも、不思議と透花の声だけは鮮明に聞こえた。

 だが、大丈夫だと伝えるための呼吸ができない。


 まさか指を折られることに気付いていながら、一切の躊躇ちゅうちょなくノータイムで投げてくるなんて……。

 清明先輩の覚悟を甘く見ていたのは俺の方だったってのか。


 体重まで乗せた完璧な背負い投げ。

 内臓が口から飛び出したと錯覚するほどの衝撃。


 ──くそ、マジで殺す気かよ。


 追撃に備えて即座に起き上がろうとするが、胸部を中心に絶望的な激痛が走る。

 指の先の先まで『もう動くな!』という脳からの絶対命令が駆け抜ける。


 ──これは肋骨の二~三本は逝ってるな。


「どうした、もう降参か? でかい口を叩いた割には、俺に傷一つ負わすこともできずに終わりとは……情けない……」


 何が傷一つ負わせないだ、強がってんじゃねえよ。折れてるだろ、その小指!

 ――と叫びたいが声が出ない。

 肺から漏れ出るのはヒューヒューという隙間風のような音だけ。


「やはり所詮はその程度か……何が総一郎より自分の方が優秀だ。笑わせてくれる……」 


 追い打ちもせずに、勝ち誇ったように俺を見下す清明先輩。

 そのムカつく表情に、奥歯が砕けそうなほどに全力で食いしばる。

 だが、微かに動かせたのは小指の先だけ。


「ティアちゃんっ!」


 全く立ち上がる気配のない俺に透花が駆け寄る。


「と……うか……ゲホッ」

「喋らないで、もう止めて! わたしのことはもういいから! お願いだから、もう……」


 透花はその胸に俺を抱き寄せられる。

 暖かい。いい香りがする。

 このまま透花に包まれて眠りにつきたいという誘惑が全身を覆う。


 ――と、次の瞬間、ぽたりと俺の頬を透花の涙が濡らした。


「とう……か。泣いてる……の? どうして、なんで……泣いて……?」


 何で泣いてるかって……そんなの決まってる。


 女の俺が弱いからだ。

 透花を泣かせるなんて、俺が絶対にしたくないことなのに……。


 でも、だったらどうする?

 どうすれば、透花を笑顔にできる?

 今の俺では、この手を伸ばして、透花の涙を拭ってあげることすらできないというのに……。


 何がいけなかった?

 何が間違っていた?

 どうして俺はこんなところで、踏みつけられた蟻のようにくたばりかけている?


 ズルをした罰か?

 男のくせに、神様の力で女になって、透花を騙して、ああ、そうだ、よくよく考えればとんだ変態野郎じゃねえか。


 ……じゃあ、男に戻るか?


 総一郎なら清明先輩に負けることもないよな。

 総一郎が百合家に入れば、透花も望まない結婚をしなくていいんだよな。

 そうすれば透花に自由をあげられる。

 透花を泣かせずに済むんだよな。


 …………本当にそうか? 


 総一郎は強かった。

 強かったけれど、じゃあ、透花を守ることができていたか?


 全然そんなことなかった。


 今なら分かる。総一郎の頃の俺は、透花に困ったような作り笑顔を浮かべさせることしかできなかったじゃないか。


 でも……じゃあ、どうしろってんだよ。八方塞がりじゃねえか。

 駄目だ。頭が回らない。酸素が足りない……。

 身体が動かない。呼吸をするだけで、激痛で吐きそうになる。


 ――もういいだろ、お前は十分頑張っただろ。


 と、頭の中で誰かが甘く囁く。


 ――元々、無茶な戦いだったんだ。負けたって透花なら分かってくれるさ。


 優しい言葉が、麻薬のように激痛を和らげてくれる。

 そうだよな、透花ならきっと笑って許してくれるよな。

 いつもの、あの天使のような笑顔で……きっと……きっと…………。


 ────って、そんなわけねえだろうが!


 俺が負けて、そん時透花はきっと許してくれる? 笑ってくれる?

 ああ、そうかもな。

 きっとそうだろうよ。


 けどな、その時の透花の笑顔は〝あの笑顔〟に違いないんだよ。

 俺に告白された時の、たまに総一郎の話題が出た時の、あの困ったような作り笑顔。


 苦しさを無理やり押さえつけて、周りに悟られないように必死に張り付けた嘘の笑顔。

 あんなのは透花の本当の笑顔じゃない。

 俺はもう知っている。透花の本当の笑顔を。


 ──俺にセクハラしてる時。

 ──白姫たちとくだらない話で盛り上がっていると時。

 ──そしてティベリアと頭のおかしなデートをしている時。


 思い出した。思い出した。

 胸に広がる、何よりも大切な透花の笑顔。

 もし、ここで俺が負けたら、あの透花の笑顔はどうなる?

 全寮制のお嬢様学校に転校して、見ず知らずの金持ちと結婚させられて……それからの人生ずっと、総一郎と一緒にいた頃みたいに、顔で笑いながら心で泣いて生きていくのか?

 しかも、それ全部俺のためなんだろ?

 俺が何よりも守りたいと思った透花の笑顔。その笑顔を犠牲にしてまで、透花は俺を自由にしようとしてくれて……。


 ……それって、そんなのって無いだろ。

 何だよそれ、違う、違うだろ透花!

 お前が俺のために自分を犠牲にする必要なんて無いんだよ。


「……馬鹿だよ、透花。総一郎なんて、ずっと騙してりゃ良かったんだ。あんなに自由になりたがってたのに……自分の幸せだけ考えてて良かったのに……」 


 涙が零れた。透花の涙と俺の涙が、冷たい頬の上で交じりあう。


「ティアちゃん……?」

「なのにお前は、あの大馬鹿のために。あんな大馬鹿を、百合透花って呪縛から解放するためにだけに、全てを捨てるなんて……」


 ありがとう、透花。総一郎をそんなに大切に思ってくれて。

 少しでも君を疑ってごめん。

 だから俺は、透花の想いに死んでも答えなきゃならない。

 俺が心底惚れ直した透花の笑顔を、俺のために諦めさせるなんて絶対に許せねえだろ! 


「白姫とちゅう子と、三人で楽しそうに笑ってた。私にセクハラして興奮して鼻血出してた。声を上げて、腹を抱えて、心から楽しそうに青春してた。私はそんな透花が好きなんだ」

「ティアちゃん、そんなこともういいから!」

「良くねえよ! 私は透花の笑顔を守りたい。透花の笑顔を守れるなら、私の身体なんてどうなったって構わない!」


 両想いになるとか、TS百合とか、もうどうでもいい。

 見返りなんていらない。

 ただ俺は、透花が俺にくれた優しさに報いたい。


 なあ、自分のことばっかで、全然格好良くなかった俺。いつまで寝てんだ? 寝てる場合じゃねえだろ!

 今こそ、本気で格好つける時だろうが!


「私は、透花に幸せになって欲しい。だから、私はこれくらいで倒れているわけにはいかないんだよっ!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る