第45話 金色の天使
「総一郎からの告白を断ったというのは、本当なんだな……」
「……はい、先日連絡した通りです。でもまさか、兄さんが留学を切り上げてまで帰国するとは思いませんでした」
お爺様の趣味で作られた英国調の豪奢な生徒会室に居るのは、わたしと兄さんの二人だけ。
部屋の電気は消されて薄暗い。
差し込んでいるのは、兄さんの後方にある2メートル四方ほどの天使のステンドグラスからの太陽光のみ。
唯一の出入り口である頑強な木製の扉には、誰も入って来られないように中から鍵がかけられていた。
「俺の留学の話など、どうでもいい。そんなことよりお前は総一郎を振ったことの意味を本当に理解しているのか?」
生徒会長のみが座ることを許された豪奢な椅子に腰かけた兄さんは、普段は決して見せない厳しい視線でわたしを射抜く。
合理的で不要な感情は表に出さない兄だからこそ、今回の件に対する
「全て理解しているつもりです。家のことも、兄さんの考えも、全て考えた上での決断です」
「……真っ先に俺に連絡したことは評価しよう。それがお前なりの誠意だということもな。性的指向は生まれつきもある、仕方のないことだ。それで差別するつもりはない」
ゆっくりと椅子から立ち上がる兄さん。
その緩やかな挙動が逆に威圧感を強くする。
「だがそれ以前に、お前は百合家の長女だ。お前の将来は百合家の、延いては日本の未来にすら関わって来るんだぞ」
部屋全体を震わせるような落胆を孕んだ怒気の声。
少しでも気も抜くと気圧されそうになる。
でもここで引くわけにはいかない。視線を逸らすわけにはいかない。
「それは……重々承知しています」
「だったら! どうして総一郎を振った? あれは百合家に必要な男だ。だからこそ、お前達の仲を認めてもらうために俺は尽力してきた。だというのに、お前は……女が好きだというくだらん理由で、総一郎を手放したというのか!?」
「兄さん! くだらないって、そんな言い方!」
「百合家の未来に比べれば些末な事だ! 理解はする。差別もしない。何だったら同情だってしてやろう。だが、俺たちには責任がある! 俺達の肩には、百合グループ総勢十五万人と、その家族の未来が掛かっているんだぞ!」
「……それは……分かってます」
「それに、お前が総一郎を選ばないというのなら、お前に残された道も限られるんだぞ?」
「……はい」
そんなの知ってる。分かってる。
きっともう、私には今までのような自由は許されない。
今の学校にも通えなくなる。
結婚だって、家が決めたどこかの誰かとすることになるのだろう。
それは、子供の頃から死ぬほど嫌だった、定められた私の結末。
でも今は、自分でも驚くほど心は凪いでいた。
お父さんもお母さんも大好きだ。
百合家には嫌なことを言う人もいたけれど、それ以上に優しくて大好きな人達が沢山いる。
その人たちを守るのも私の役目だから。
だから、わたしだけが逃げることはできない。逃げたくない。
それに、これで総くんが私という呪縛から自由になれるなら、誇らしいくらいだ。
「自由を失うのを分かっているというならば……どうして上手くやれなかったんだ……」
「上手くって……どういう?」
「総一郎と所帯を設けた後は、別に愛人でも何でも囲えば良かっただろう。総一郎は度量の深い男だ、お前の事情だって察してくれるだろうさ」
「っ!? 兄さん!」
耳を疑った。この人はなんてことを言うのだろう。
その言葉だけは聞き流せない。
「その言い方はあまりにも、総くんに失礼だとは思わないんですか!?」
「お前が総一郎を語るか? 散々騙して、利用してきたお前が?」
「そんな言い方っ!?」
「いいか? 総一郎が留学から戻り次第……いや、今すぐアメリカへ行って誠心誠意謝罪しろ。あれは冗談だったとか、あなたが居なくなって本当の気持ちに気付いたとか、理由は適当でいい。とにかく、総一郎を連れ戻すんだ!」
「兄さんっ!」
「これはお前のためでもあるんだぞ。総一郎は素晴らしい男だ。お前には勿体ない程のな」
そんな事は知ってる。
総くんの凄さは、わたしが世界で誰よりも知っているんだから。
「総一郎さえいれば百合家の更なる繁栄は約束されたも同然だ。家のことは俺と総一郎に任せればいい。そうすれば透花、お前は晴れて自由の身だぞ……」
「……自由ですか…………やっぱり、兄さんは何も分っていないんですね……」
──自由。
それは確かに、かつてのわたしが何よりも欲して止まなかったもの。
でも今は、もっと大切なモノを、わたしは見つけている。
「兄さんはわたしに総くんと嘘の恋人になれ、嘘の夫婦になれと言うんですね。わたしと総くんが、これまでどんな想いで生きてきたのか、その心を微塵も理解しようともしないで……」
私がどんな想いで総くんを振ったのかも知らないで……。
あの時の総くんが、どれほどの絶望に打ちのめされたかも知らないで……。
「――馬鹿に……しないで……」
「……透花、今、何と言った?」
「馬鹿にしないでと言ったんですっ! わたしは何を言われたって構わない。けど、総くんの気持ちをこれ
あの純粋な人の心を、これ以上傷付けるのはわたしが絶対許さない!
「わたしだって……総くんを好きになりたかった。総くんと恋人になって、二人で大人になって、結婚して、子供を産んで……総くんと家族になれたらどんなに良かったか……」
でも駄目だった。
どうしても、わたしはそうはなれなかった。
「本当のことを伝える勇気が無かった。総くんを騙し続けたわたしは酷い女です。それでも、わたしと総くんが詰み重ねてきた想いをくだらないと切り捨てることは誰にもさせない!」
だからこれはせめてもの償い。
総くんを……百合透花という呪縛から解放する。
「――わたしと総くんの十年を舐めないで下さいっ!!!」
わたしの想い。総くんの想い。
誰にも汚させない。わたしが守る。
「本気なんだな……」
「はい」
「覚悟は変らないのか……透花?」
「はい」
「今から母さんに、お前の言葉をそのまま伝える。そうなれば後戻りはできないぞ?」
「もう自由は要りません。家の方針に従います。これ以上、わたしの人生に総くんを巻き込むことはできません……」
恋することはできなかったけれど、それでも誰よりも大切な人だから……。
「――それに思い出は、もう十分に貰いましたから……」
総くんにも……それにティアちゃんにも……。
少しの間しか一緒に居られなかったけれど、あっと言う間にわたしの心を
わたしの我がままで弄んてしまった女の子。
ごめんねティアちゃん。
もし、もう一度会えたなら、ちゃんと謝りたいな……。
わたしは嘘つきで、我がままで、酷い女で……だから、これからその報いを受けなくちゃいけないけれど、総くんとティアちゃんに出逢えて本当に嬉しかった。
二人とも、こんな嘘まみれの女を好きになってくれてありがとう。
大切な思い出をありがとう。
「一生忘れない……二人とも大好きだよ……」
もう幕を閉じよう。
瞳を閉じる。
いつでも思い出せるように。幸せな記憶と共に、これからを生きよう。
兄さんが電話を掛ける。
静寂の中に、冷たいコール音だけが鳴り響く。
死刑宣告のカウントダウン。
全てが終わったと覚悟した――その刹那。
生徒会室を飾る天使のステンドグラスが、けたたましく砕け散った。
突如として差し込む光。
闇から光へ。
暗い部屋が一気に眩さに包まれた。
スローモーションのように降り注ぐ無数のガラス片と太陽光が、万華鏡のように室内を照らす。
そんな満天の星空のような部屋の中、颯爽と舞い降りたのは金色に輝く一人の少女。
その可憐な姿を見た瞬間、今まで必死に堪えていた涙が大きな粒となってこぼれ落ちる。
最後まで泣かないって決めてたのに……。
ズルいよ、こんなの反則だ。
「ティアちゃんッ!」
「――待たせてごめん、透花。後は任せろ!」
そう言って、ニッと笑うティアちゃんの背中は、私よりずっと小さいはずなのに、とても大きく頼もしく見えたのだった……。
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