弐
リビングの扉を開けると、知らない老人がソファーに座っていた。白人の老人だった。宙を見るような瞳を僕たちの方へ向けている。その隣には見るからに屈強な背広を着た男が二人。一人は白人。もう一人はアジア系だった。
「ガルシア教授」
海津は呟く。
「お久しぶりです。海津さん」
外人らしいイントネーションで答える。
海津はおかしそうに笑った。
「教授。いつ日本語を覚えたんですか?」
「コツコツと学習しました」
海津が前に話していた。ワクチンを世界中に広め七十億人の命を奪ったステファニー・ガルシアの兄、アンソニー・ガルシアだ。
なぜ、ステファニーの兄のアンソニーが僕の家に。
ステファニー・ガルシアが数々の証拠を突きつけられ、ワクチンの副反応によって死がもたらされると知った上でワクチンを広めたことを自白して自殺したのは、五年前のことだった。
「アンソニー・ガルシア。やっぱりあなたが黒幕だったんですね」
海津の言葉にガルシアは両手を広げて戯けてみせる。
「黒幕ですか。それならミスター・海津。あなたが黒幕だとも言えるのではないですか?」
「そういうことだったんですね」
海津は納得している。が、僕はなにもわからない。
アンソニーは内ポケットから小瓶を取り出す。
「海津さん。あなたの鞄の中に入っていました。内田裕二は、内田達也だったのでしょう?」
海津は曖昧に笑って見せた。
「なんの話をしているんだ!?」
僕は大声を出してしまった。なぜ、裕二の名前が出る? 裕二が僕だとは、どういうことだ? 僕が口を挟む権利はあるはずだ。
「教授。あなたももう察していると思いますが、今日、ちょうど達也にその話をしに来たところです。今から達也は過去に戻り世界を救います」
ガルシアは冷淡な笑みを浮かべながら首を振った。
「それは無理です。しかも、必要のないことです。まず、あなたたちはここで死にます。だから無理です。そして、世界はすでにわたしが救いました。だから必要ありません」
「あなたから、ワクチンを打つなと連絡をいただいたとき、おかしいと思ったんです。もしものために、おれが死んだらマズかったんですね。で、もう用がなくなったから殺す」
「前の時間軸では、あなたがこれを作ったのは2035年でした。それが、四年も早く完成させてしまうとは。正直驚いています。用がなくなったのは確かですが、余計なことをされても困ります。むしろ、その理由の方が大きい。これは、もう必要のないものです。存在してはならないものです」
ガルシアは瓶を揺すってみせる。
「接種義務違反で大学も研究所も追い出されて、おかげでこの研究一本に専念出来たのかも。あと、こんな世界を救わなければいけないって思いましたんで」
「もう一度言います」ガルシアは諭すように話す。「世界はすでに救われたのです。だから、あなたがこの薬を完成させた今、生かしておくわけにはいかなくなってしまったのです。今の海津さんは分からないでしょうが、以前の時間軸のミスター・海津なら、きっと分かってくれるはずです」
もっと分かるように話して欲しい。それが僕の切実な願いだ。ここで死ななければならないならなおさらだ。
「ガルシアさん。冥土の土産という言葉を知ってますか? 僕にも分かるように話して欲しい。冥土の土産に」
その言葉なら知っていると言わんばかりに、ガルシアは大仰に頷いた。
「あなたがたが憎んでいるステファニー・ガルシアはわたしの妹です。しかし、あなた方が知っているステファニーはわたしなのです。2035年から1963年、当時十歳だったステファニーの体に入ったわたしなのです。ご存じの通り、わたしと海津さんは意識と肉体の分離の研究を行っていました。意識を分離させる薬剤が完成し、海津さんが飲んでもなにも起こりませんでした。理論的には意識が移動するはずなのに。しかし、わたしはその薬を飲み干すや、異様な痛みに襲われた。目が覚めると妹が溺れて死んだ湖が目の前に広がっていた。幼いわたしが湖で泳いでいた。湖畔にはテーブルと椅子が置いてあり、若い父と母がサンドウィッチを摘まんで談笑している。わたしは湖面に自分の姿を映しました。さざ波に揺らいでいましたが、懐かしい妹の姿があった。最初はただ夢を見ていると思いました。しかし、日が経つにつれて、これは紛れもない現実だと分かるようになりました。ミスター・海津の発明は成功したのだと。わたしの意識は時空を超え、死んだはずの妹に移った。わたしは確信します。世界を救わなければならない。その使命を帯びていたのです。2035年は……、この時間軸ではなく、わたしが以前いた2035年は地球環境の悪化によりもはや地球に住むのが困難になっていました。人類が地球に住めるのも後数年という状況でした。宇宙開発も間に合わない。そういう選択肢しかない中で人類を救う方法が、過去に遡り世界を変えるという方法です」
ちょっと待て。それを是としろというのか。そのために、理恵が死に、弟が死に、僕が死ななければならないのか。海津がいま殺されなければならないのか。七十億、八十億人近くの人間が死ななければならないのか。それがどうして人類を救うことになるのだろうか、僕には理解出来ない。
「ふざけるな、七十億人殺しておいて、人類を救っただと?」
「絶滅に比べたら遙によいことです。少なくともワクチンを打っていない人間、一億人以上は残ります。ゼロとイチの間には永遠の隔たりがあります」
ガルシアはしらっと言ってのけた。
「教授。認められたらいかがですか? 人類を救うことに失敗したと」
海津が言った。
「海津さん。日本の諺にもあるでしょう。Easier said than done.と。たしかに、ベストではなかったかも知れない。しかし、最悪を免れたのは間違いありません。わたしの行いにより、わたしは今世界中の人間から忌み嫌われていますが、むしろ感謝されてしかるべきであると考えています」
人類の絶滅を避けるために七十億人に死のワクチンを打って殺す。絶対に肯定出来ない。
「僕はおまえのやったことが許せない」
ガルシアは呆れたように、
「では、どうすればよかったというのです? 地球が滅び、人類が滅びようとする社会がどれほど悲惨であるかあなたは知りません。わたしがあなたがたに言う言葉は一つです。Shut up! わたしのことを許せないのは分かっています。五年前にワクチンの毒が人為的であることが明らかになり、ステファニーは死ぬか殺されるかを選ばなければなりませんでした」
海津はサイエンティストらしい冷静さと好奇心が混ざったような質問をする。
「2035年の教授が乗り移ったのは亡くなったステファニーの方のはずです。なのに、あなたはまるで自分が2035年からタイムリープしたように話す。なぜです?」
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