第八章 君打ちたもうこと勿れ

生物では個が死ぬことと種が死ぬこととは違うんですね。個は限りなく死んでいくんです。人間は個を問題にしてきましたから自然界と訣別せざるを得なかったんです。個を守らんがためにした行動が、種を危機に追いやった。


宮崎駿 映画監督 1997年のインタビュー






 海津の薬を飲み干すと、激しい痛みが頭と胸を襲った。そして、僕はドラッグストアーののっぺりとした床に頬をくっつけて倒れている。記憶が怒濤のように押し寄せる。何回目のタイムスリップだろうか。ゆっくり数えている暇はない。


 由奈が買い物カゴを放り投げて、駆け寄ってくる。


 すぐに、頭と体はリンクして、動けるようになるはず。指先から徐々に神経が蘇ってくる。


「ちょっと、大丈夫っ!?」

「大丈夫だよ」


 僕は再び頭をフル回転させる。ガルシアを殺すことは難しい。向こうも僕の反撃は想定の範囲内だ。先手を読み、向こうの意表を突く必要がある。


 時間が欲しい。時間さえあれば、なにか考えが見つかるかも知れない。ガルシアだって、何日も本国を開けることは出来ないはずだ。


 とりあえず、僕は買おうとしていたものを手近な棚に戻す。ついでに、商品に紛れ込むようにスマホも棚の奥に放った。連中はスマホを傍受している。持っている限り、居場所は筒抜けだ。


 由奈を店の外に連れ出す。


「由奈、僕を信じて欲しいんだ」

「なに急に」


 僕はあたかもキスをするように、暗がりで由奈を抱きしめる。彼女の体が強張る。その耳元に、


「スマホ捨てて」


 音声が拾われている可能性もある。


 由奈はちょっと思案して、それでも僕を信じてポケットからスマホを取り出すと、そのまま暗い地面に落とした。


 由奈の手を引いて歩き始める。


「行こう」

「どこに?」

「とりあえず、上野駅」

「ちゃんと説明してよね」

「するよ。するから、三日くらい会社休んで」




―2031年―




 眠ってしまったらしい。目を覚ますと車は大きく弧を描きインターを降りるところだった。


「随分よく寝てたな。昨日寝てないのか?」


 ハンドルを握りながら、海津は笑っていた。


「いや、そういうわけじゃないけど」


 高速も、下道も空いている。僕は目を覚ますつもりで窓を開ける。ひんやりとした十一月の空気が車内に流れ込む。人が少なくなり、車が少なくなった。空気は大分綺麗になった。


 ただ、寺だけは毎年賑わいをましていた。今年は車を止める場所すらない。向こうで雲水の義章さんが誘導棒を振って僕たちに合図を送っていた。その場所に白線は書かれていなかったが、車が一台止められるスペースがあった。


「いいの、ここ止めちゃって」


 と僕は義章ぎしょうさんに聞く。


「大丈夫ですよ。内田さんはお参りするだけでしょ」


 義章さんとは年も同じくらいで、お参りのたびに気軽に言葉を交わしていた。僕は義章さんの姿に思わず笑ってしまった。


「今日は混んでるね」

「ええ。特に今日は。だからこんな格好してるんです」


 義章さんは腕を広げてみせる。作務衣の上に黄色う反射ベストを着て誘導棒を握る姿は実に似合っていなかった。


 義章さんはかったるそうに誘導棒と顎をつかって、次々と来る車を裁いていた。昔の真面目で杓子定規が袈裟を着て歩いていた頃を知っているので、余計可笑しかった。前に、なんか雰囲気変わりましたね、って聞いたら、やっぱり分かります? 僕悟り開きましたから、などとふざけたことを言って住職に怒られていた。


 僕と海津は喪服の集団が屯する脇をすり抜けて、寺の門をくぐった。


 透き通るように青い空が広がっている。秋日の午後。寺の山には色づいた葉がアクセントを刻んでいた。


 たまたま本堂から降りてきた住職と目が合った。僕は会釈し、


「すごい、混んでますね」

「ああ、内田さん。ご覧の通りの忙しさです。坊主、まるで儲からず」


 住職は戯けて言う。


「墓参りに来ました」

「どうぞ、ごゆっくりお参りなさっていってください」


 住職は呼ばれる声に引き寄せられるように、軽く会釈をすると、足早に去った。


 僕はその背中を見送る。


 傾斜を登って両親と弟、あと理恵が眠る墓を掃除する。水をやり、花を添えて、線香の煙をくゆらす。手を合わせ終えて、墓石に刻まれてた内田裕二の文字を眺めていた。


「なぁ、僕はなんだか裕二はどっかで生きているような気がするんだよな」


 なんとなく呟いた。そんなことがあり得ないことは十分に知っている。


「なんでそう思う?」

「べつに、そんな気がしただけ」


 僕たちがお参りを済ませて、山を下っていると、下から花と水の入った手桶を持った三十代くらいの華奢な女性が登ってきた。十年ぶりに姿を見たが、彼女が高橋由奈だとすぐに分かった。


 彼女の方も僕らに気がついたようで目を伏せた。


「どうして、あなたが来るんですか」


 黙ってすれ違おうとしたが、僕は思わず言葉を発していた。以前にも墓に花が供えられていたことがあった。薄々高梨由奈が供えたのかも知れないと思っていたが、やっぱりそのようだった。たまらなく不愉快だった。彼女が弟を殺したようなものだからだ。


 彼女は俯いたまま黙っていた。


「はっきり言って、あなたにお参りして欲しくはありません」

「やめろ。大人げない」


 海津が僕を小突く。


「すみませんでした」


 彼女はぼそりと呟くと、花と手桶を持ったまま踵を返し山を下っていった。


 彼女を追い返したものの、僕の心のわだかまりは余計にねじれたような気がした。僕と海津はその場に立ち止まり、彼女が山を下りていくのを眺めていた。


「気持ちは分かるが、もう十年だぜ。許してやれよ。おまえだって、彼女だってもう長くないんだから」

「頭では分かってるんだけどさ」


 彼女さえいなければ、裕二は死ななかった。十年前、僕の結婚式の翌日、彼女と裕二は心中を図った。それは、彼女に請われたところが多い。少なくとも僕はそう思っている。なぜなら、前日の結婚式で遇ったとき、裕二が自殺するような気配は微塵も感じられなかったからだ。


 結婚式の翌日、彼らは勤務が終わると、そのまま樹海に向かった。二人で死ぬつもりだったと彼女は言った。なのに、先に裕二が死に、怖くなって彼女は逃げ帰った。彼女が埋めたということもあり、裕二の遺体は見つけることが出来なかった。警察は殺人で高橋由奈を逮捕した。しかし、有罪にはならなかった。令和の心中事件として、ワイドショーでも若干の話題となった。


 僕はモバイルを確認した。寿命はあと二百三日だった。


 十分に間隔を開けたのを確認して、僕たちも山を下る。


「頭では分かってるんだけど、彼女さえいなければ裕二は死なないですんだ。そう思うとやるせないよ」

「まぁ、そうだけどな。しかし、ワクチンさえ打たなければ七十億の人間が死なないですんだ」


 そんなことは分かっている。ワクチンを打った七十億の人間は死ぬ。でも、どうやってワクチンから逃げられたというのだ。国を挙げて、いや、世界中でワクチンは安全だと洗脳し、反ワクチンの人々に対する憎悪を植え付け、厭悪して馬鹿にする風潮を生み出し、挙げ句の果てにパスポートを作って義務化をする。そこからどうやって逃れよというのだ。


 帰りの車の中で僕は呟いた。


「おまえはやっぱりずるいよ」

「なにが?」

「ワクチンを打たなかった」


 海津は人差し指でハンドルを叩きながら、


「おまえだって死ぬのが分かってたら打たなかっただろ? おれを恨むんじゃなくて、ガルシアはじめ打たなきゃいけない世の中を作った連中。それに流された連中を恨め。そして、世間に流されて打った自分を恨めよ。後悔してるならな」

「今日は手厳しいな。おまえの言うとおりだよ。あの世間に抗って、仕事を失い、逮捕されて、有罪になって、それでもワクチンを最後まで打たなかったおまえは大した奴だよ」


 僕が高橋由奈を嫌っているもう一つのわけ。彼女は反ワクだ。結局捕まって打たれたらしいが、裕二が突然ワクチンを打つなとか言い始めたのも、彼女の影響かも知れない。しかも、なにが許せないかって、徹底的に見下して軽蔑してバカにしていた反ワクの彼女が、本当は正しかったってこと。まるで、唯々諾々とワクチンを打った僕は哀れみとともに嘲笑われている気分だった。そんなこと、彼女が微塵も思っていないとしても、僕は自分を卑下してしまう。そんな気持ちが、ずるいという言葉を吐かせた。


 海津は僕のマンションの来賓用駐車場に車を止めた。


「ちょっと寄ってくだろ?」


 僕は海津を誘った。


「ああ。おれもおまえに話したいことがあったんだ」


 僕は部屋に戻る途中、言い知れぬ違和感を覚えた。エレベーターに乗ったとき、ドアノブを握ったとき、部屋に一歩入ったとき、違和感が存在した。ただ、部屋に入ってしばらくすると、違和感は消えたのか、忘れてしまったのか、意識に上がらなくなった。


 戸棚から、切ってあるシュトレンを出して珈琲をいれた。十一月の陽は短い。下らない昔話に花を咲かせて、珈琲を三杯も飲めば、外はもうすっかりと夜であった。食い物と酒でも買いに行こうか、などと話していて思い出した。


「そういえば、おまえ、なにか話しがあるって言ってなかったか?」

「一杯やってからでもいいぜ」


 どうしよう。僕は逡巡した。


「飲んでからにするか」


 焦る必要はない。夜は長いし、僕の寿命は半年以上もある。二人で近所のスーパーへ行く。僕はワクチンパスポートを持っている。ワクチンの副反応により一年以内に死を迎える市民は食料品を含め日用品を無料で手に入れることが出来る。死ぬのが分かっているのだから、健康の名目は使えないはず。なのに、酒は未だに有料だ。だから、少し大食漢だと疑われるかもしれないけど、食料品は僕が一人で会計を済ませ、酒は海津が会計をして、後で割り勘。


 おにぎり、焼き鳥、ビールとワイン、チーズなどのツマミを買った。それぞれ、一つずつエコバックを手に提げてマンションに戻った。


 戻ったとき、さっきよりももっと強い違和感を覚える。エレベーターの中、ドアノブの感触、部屋の空気。明らかに何かが違っていた。

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