第七章 解を求めて

ワクチンを受けるか、NBAでプレーしないか、という選択肢しかなかった。タフな決断だ。ワクチンを受けたことは長い間、自分の心に残るだろう。望んでやったことではなく、受けざるを得なかった。10年後も健康でいられることを願っている。


アンドリュー・ウィギンズ バスケットボール選手 2021年十月四日 記者への説明





―2031年―




「――はっ!」


 目が覚めた。自分の声に驚く。


「おいおい、大丈夫か?」


 海津は心配そうに横目で僕を見た。


 僕は車の助手席に乗っていた。景色が流れていく。シートは小刻みに揺れる。高速道路の単調な風景のせいか、いつの間にか眠ってしまって、嫌な夢を見た。なんでここにいるのだろうか。ゆっくりと意識が戻ってくる。そうだ。裕二の墓参りに海津と向かってるんだった。


「大丈夫か? うなされてたぞ」


 ハンドルを握る海津はもう一度言った。


「大丈夫、大丈夫。変な夢を見た。ごめん、運転してもらってるのに寝ちゃって」

「夢って、どんな夢だ?」

「えーと……」


 さっきまで、あれほどはっきり感じていた夢のはずなのに、思い出すスピードよりも速く、ぽろぽろと跡形もなく記憶の中から崩れ去っていく。


「夢ってさ、見てるときは覚えてるんだけど、目が覚めると思い出せないんだよな。おまえ、脳科学やってるから、その辺のカラクリ詳しいんじゃないか?」


 海津は鼻で笑う。車は大きな弧を描いてインターを降りた。一般道もがらがらだった。


「夢占い師には適わないな。どんな夢か少しも覚えてないのか?」

「なんか、裕二が出て来たような気がする」

「そりゃ、これから裕二の墓参りに行くから、どこか意識に残ってるんだろ」


 裕二の墓参り。裕二は死んだ。そう、僕と海津は裕二の墓参りに向かっている。僕は突然役を振られた役者のように、目の前の現実が作り物のように感じた。


「裕二はコロナで死んだ。いや、トラックに撥ねられた、いや違う。裕二は……」

「なに言ってんだおまえ?」


 海津は運転しながら、ちらりちらりと怪訝な目を僕に向ける。


「裕二は殺された……」

「おい、本当に大丈夫か? ちゃんと思い出してみろ、裕二がどうして死んだか」


 海津の声はなかば怒気が含まれていた。


 僕は大きく息を吸って、ゆっくりと記憶をたどる。紛うことのない、確かな記憶を。僕は記憶を言葉にする。


「裕二は火事で死んだ。恋人を殺して、自らガソリンを撒いて焼身自殺をした。心中なのかどうかはわからない。裕二は肺に炎を吸い込んだ跡があったけど、恋人の方は跡がなかった。警官が駆けつけたが間に合わなかった」


「警官が一人、助けようとして、焼け死んでしまった」


 海津が付け加えた。


「おまえが通報してくれたんだよな」

「そうだ。結婚式の日、裕二と会う約束をしてて、あの日尋ねていくと裕二の部屋から争うような物音がしてな。それはすぐに止んだんだが、呼んでも声がしないから、警察を呼んだ」


 僕は十年間、ずっと気になっていたことがある。海津は争うような物音がして警察を呼んだという。しかし、僕が警察から聞いた話では、住民やあの近辺で物音を聞いた人間はいなかったということだった。海津一人だけが争うような物音を聞いた、ということ。そんな疑念が生じると、海津が裕二を訪ねる理由も疑わしくなった。


「そもそも、おまえはなんで裕二を訪ねたんだっけ?」

「それも忘れちまったのか? 裕二が脳科学的な視点から、公告の有効性を高める方法を聞きたいって、結婚式の時話してさ、それであいつの家に行くって約束した」


 裕二はミニコミ誌の編集のようなことをしていた。公告の仕事もしていたのだろう。しかし、裕二の携帯の連絡先に海津はなかった。同じ高校の先輩後輩だが海津と裕二はそれほど親しくないはずだ。それに、海津が来るのを分かっていて彼女と心中というのも解せない。裕二の死は解せないことだらけだった。


「混んでるなぁ。車止められるかな」


 寺に到着した。喪服姿の人たちで溢れている。駐車場にもびっしりと車が駐まっていた。あたかもよく、前方の車が一台出た。


「お、ついてる」


 海津は車を止めた。


 僕と海津は喪服の集団に紛れて門をくぐる。僕たちは法要をするわけでもないので普段着であった。


 たまたま本堂から降りてきた住職と目が合った。僕は会釈し、


「すごい、混んでますね」

「ああ、内田さん。ご覧の通りの忙しさです。坊主、まるで儲からず」


 住職は戯けて言う。


「墓参りに来ました」

「確か昨日が命日でしたな。弟さんも喜ぶでしょう。わたしもあと半年の命です」


 本当に忙しいらしく、住職の額にはうっすらと汗が浮かんでいた。


 そう言えば、ほかの僧侶が見当たらない。昔はもっとたくさんお坊さんがいた。


「ひょっとして、もうご住職お一人?」


 恥ずかしそうに頷いて、


「最後のご奉公です。命ある限り、わたしはこのつとめを果たします」

「みんないなくなってしまいますね。最初、義章ぎしょうさんがお亡くなりになったときはびっくりで」

「あの時はまだワクチン副反応が公になっていない頃、ガルシアショックの前でしたからな」


 住職は檀家から呼ばれる。軽く会釈をすると、足早に去った。


 僕はデジャブに襲われた。あまりにも、その偽りの記憶がなにか意味ありげに僕の精神をのぞき込んできて、しばらく動くことさえ出来なかった。


「おい、どうした? おまえ、今日なんか変だぞ」


 海津の声にまたデジャブを感じた。デジャブのデジャブなんてあり得るのだろうか?


「ああ、大丈夫。なんていうんだっけ、こういうの、ええと、デジャブ?」


 海津はなにも言わなかった。ただ歩いて、裕二の墓がある方へと向かった。


 内田家の墓はいつもと同じようにそこにあった。秋の色のなかに、灰色の石は静かに鎮座していた。僕はなにかを確かめるように墓碑を読んだ。墓碑の前で跪いた。理恵の名前が刻まれていた。


「理恵は、死んだのか?」


 僕はなにを言ってるんだろう。半年前に理恵はワクチンの副反応で死んだ。僕は彼女を看取った。そのことは記憶にはっきりとあるのに、その記憶が作り物のように感じ、記憶を疑ってしまう。


「おまえ、戻ってきたんだろ?」


 呆然としている僕に向かって、海津が不思議な言葉を投げかけた。海津の言葉がなにを意味しているのか分からなかったが、なにか重大な意味があるようにその言葉は響いて、無視出来ない。僕は尋ねる。


「戻ってきたって、どこから?」


「2021年から」


 海津は答えた。


 2021年から戻ってきた。笑い飛ばしたいところだが、それが出来ない。出来ないし、その答えを脳の奥の方が受け入れている嫌いすらある。


「なんなんだよ。一体。わけ分かんないよ」


 海津は落ち着いた口調で言う。


「おれは2021年に、裕二の体に入っていたおまえに会ったんだ」

「裕二の体に入った僕?」

「ああ。おまえの結婚式の日に、裕二はおれしか知らない合い言葉を言って、『自分は裕二じゃない、達也だ』とはっきり言った」

「ふざけるなよ、そんな戯れ言、誰が信じるかよ」

「今日陽が西から昇った」


 海津が呟いた言葉は意味不明な言葉なのに、頭の奥へと響いてくる。


 裕二は結婚式でその言葉を言ったという。海津は意識を転送する研究を行っていた。それは、未来から過去へ転送される可能性も秘めていた。だから、未来から過去へ転送されたことが分かるように、今日陽が西から昇った。という合い言葉を作った。この言葉は紙に書くこともなく、海津の頭の中にだけ存在する言葉だった。その言葉を2021年の裕二が海津に告げたという。


 海津は説明を終え、


「まだ信じられないか?」


 僕は頭を抱えて、その場へとうずくまる。


 海津は僕を抱き起こすようにして、木陰のベンチに座らせた。どのくらい座っていたのだろう。傾きかけた陽。墓地全体がオレンジ色に染まる。


 大分落ち着きを取り戻していた。モバイルを見ると、僕の寿命はあと五年もあった。あと五年ということは前から分かっていたはずなのに、妙な違和感が生じてくる。


「これ、見覚えないか?」


 海津が鞄から取りだしたのは中に液体が入った小瓶だった。


 僕はその小瓶を受け取る。透明の液体。スクリューキャップがついた小瓶。握るとひんやりしていた。


「まさか、この液体を飲むと過去に戻る、なんて言わないよな?」

「そのまさかだ。たぶん、2021年の裕二の体におまえの意識は移動する」

「じゃ、今ここにいる僕はどうなるんだ?」

「分からない。おれが見届けてやるよ」

「随分といい加減な」

「だって、世界で初めての試みだぜ」海津は目を輝かせ、「おれはこう考えている。おまえ、小説とか書いたことあるか? おれは暇つぶしでよく書いてたんだ。原稿用紙に。ある日、八十枚目から百枚目くらいの原稿を持って出かけて、電車の中で読もうと思って。自分でも眠くなるような小説で、おれは寝てしまった。目が覚めるとちょうど降りる駅で、慌てて飛び下りたんだ。ふと小説を持っていないことに気がついて、振り返るとおれが座っていた座席の横に、原稿用紙が座っていやがる。ドアは閉まった。原稿用紙はおれをホームに置き去りにして行っちまった」


 なんの話だろうか。意味がわからない。僕が怪訝な顔をしていると、海津は続ける。


「つまりさ、世界ってのはそんなもんじゃないかなって。結局、おれは帰って二十枚書き直したんだけど、それは、前に書いたものとはちょっと違った。一言一句思い出してなんてかけない。おれの小説は前の二十枚と新しい二十枚で二つの世界が生まれた。前の二十枚は、遺失物で届いていないか、駅にも確認したけど届いてなかった。捨てられたか、誰かが持って行ってどこかにあるのか杳として知れない」


「ずいぶんと雑な喩えだな」

「ニュアンスが伝わってくれればいい」

「つまり、やってみないと分からないってことか」

「分からないし、確認のしようがない。五分前仮説みたいな世界だ」


 世界があらゆる物質と記憶を備えて五分前に誕生したということをどう否定しようというのか。同じように、この時間軸が改変されたものではないということを、どう証明したらいいのだろうか。


「いいのかよ。僕がこれを飲んで2021年に戻ったら、今のおまえは消滅するかも知れないんだぜ」

「科学者はみんなマッドサイエンティスト。特におれは。ちなみに、おれはこれを飲んだがなにも起きなかった。だが、2021年、裕二はおまえだった。それも、おれが送り込んだおまえだ」

「海津、おまえひょっとして、裕二の死について――」

「ああ。知ってるよ。おれは裕二に話しがあって、あいつのアパートの前で待っていた。そしたら、怪しい連中が入ってきた。ピッキングで入ったんだ。その後すぐに裕二が帰ってきた。だから、おれは一応警察に通報した」

「じゃ、物音を聞いたからって言うのは?」

「物音なんか聞いてない。ただ、警察を動かすための方便だ」

「裕二と待ち合わせていたっていうのも?」

「おれが会いたくて勝手に行った。結婚式のときに名刺をもらったからな。通信は記録に残るから、接触したことが知られてしまう。だから、湯島まで久しぶりに切符を買ったぜ。まぁ、通報したから意味ないんだが」


 当時はまだ歩容認証システムもそれほど発達しておらず、マスクをして帽子を被ってしまえば監視カメラに写ったところで誰だか分からなかった。


「逆に、通報したことによって、あの連中もおれに手出しが出来なくなったのかもしれない」


 僕は小瓶のキャップを外す。


「とにかく、こいつを飲めば全て分かるってことでいいか?」

「正直どうなるか保証は出来ない。だが、やってみる価値はある」

「さすが、マッドサイエンティスト」

「科学者はみんな」


 僕は中の液体を一息で喉の奥に流し込んだ。

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