由奈といつものように、御徒町の屋台でビールを飲みなが食事をして、僕たちはアパートの前のドラッグストアに寄った。由奈が消費期限が切れたのでは不安だというので、新しいのを買う。別に未開封だったからよくない? と言ったら、呆れたような顔をされた。


 店を一歩出たとき由奈が、


「あ、リップ買うの忘れた。先帰ってて」


 店の中に戻っていく。


 コンドームが入った袋を持って店の中をうろうろするのも嫌だったので、先にアパートに戻った。だが、階段を上がっている時から妙な違和感があった。


 扉の前に立つとその違和感はさらに大きくなる。鍵はちゃんと閉まっていた。僕は鍵を開けた。本能が、この扉を開けてはいけないと手を押しとどめるが、理性が、開けてはいけない理由がどこにあると反発して扉を開けてしまった。


 扉を開けて、部屋に一歩踏み込むと、匂いが違った。階段で感じた違和感の正体は匂いだったのかも知れない。


 電気を付ける前に、腹に重たい一撃を食らう。倒れたところを押さえつけられて、部屋の奥へと引きずり込まれる。体は瞬く間にナイロンバンドで縛り上げられ、声を出せないように口にテープを巻かれた。小さなマンションだ。暴れれば、他の住民が異変に気づいてくれるかも知れない。だが、がっちりと床に押さえつけられて、暴れることも出来ない。


 電気がついた。


 初老の女性が僕のベッドに腰掛けていた。見紛うことはない。ステファニー・ガルシアその人だった。目の前にガルシアがいることには驚いたが、僕はすぐに、未来から来たことがバレたのだと分かった。それ以外に、極東のしがない若者を、人類をワクチンによって滅ぼしたスーパースターが尋ねる道理はない。


 闖入者はガルシアを入れて三人である。僕を押さえつけている白人の男、もう一人はアジア系の男だった。二人とも仕立てのいいスーツを纏っている。


 ガルシアはテレビで見るのと同じように、白いブラウスの上に細身のジャケットを羽織っていた。七〇歳には見えない。若々しさに溢れている。


「あなたは、いったい誰ですか?」


 たどたどしい日本語で、ガルシアははっきりと言った。アジア系の男がゆっくり僕のテープを剥がした。白人の男は僕の頭に手を添える。もし、大声でも出そうものなら、すぐに首をへし折る、そう伝わってきた。


 僕は黙っていた。もし僕が達也だと分かってしまえば、この時代の達也が襲われてしまう。


 白人の男が顔面を殴りつけた。一瞬目の前が真っ暗になり、頭がくらくらする。激しい痛みに襲われる。口の中が切れて血の味が広がる。歯の根元がぐらぐらする。


 そんな僕を感情のない目で見下ろしながら、ガルシアは続ける。


「あなたが、誰であるかと言うことより、もっと大切なことがあります。あなたはいつから来たのですか? 未来はどうなっているのですか?」


 白人の男が突然ガルシアに静かにするように合図をした。そして、僕の口と鼻を完全に覆い。全く息が出来ないようにした。アジア系の男は音もなく扉の横に張りついた。僕は目を動かすことしか出来ない。酸素がなくなってきて目がチカチカしてきたとき、扉が開いた。扉が開くと同時に、アジア系の男は由奈の手を掴み室内に引きずり込んだ。由奈が声を出す間もなく、なにかをして由奈を沈黙させた。だらりとした由奈の体が僕のとなりに投げられて、横たわる。


「Not dead」


 由奈は死んでいない、と男は言った。つまり、おまえの返答次第では殺す、という意味だ。ピクリとも動かない由奈は死んでいるのか生きているのか分からない。僕は由奈を巻き込んでしまったことを後悔した。過去に戻ったとき、もうすこし慎重に行動すべきだった。今となって反省しても遅い。


 男は由奈の首に手をかけて、力を入れる真似をする。由奈は目をつぶり、うっすらと口を開いている。この屈強な男にとって、由奈の細い首をへし折るなど造作ないだろう。


 ガルシアは僕を見据える。


「もう一度尋ねます。あなたはいつから来たのですか? 未来はどうなっているのですか?」


 同じ調子で繰り返した。有無を言わさぬ声音だった。今度は僕が答えを拒否出来ないと分かっている。今僕に出来ることはなんだろうか。最悪でも、由奈だけは助けたかった。僕は死んだところで、また未来に戻れる。


「由奈に手を出すな。彼女はなにも知らない」

「あなたが正直に話すなら、すぐに自由があたえられます」


 正直に喋ったところで、こいつらが僕たちを解放するとは考えられなかった。でも、喋らないという選択肢もなかった。僕に出来ることは時間を稼ぐことぐらいだった。


「未来はすごいぞ。おまえにも見せてやりたい。でも、おまえは未来を見ることができないんだ。どうしてだか知りたいか?」


 ガルシアは僕の言葉を遮るようにして、


「端的に答えなさい。もし意図的に時間を無駄に使うようなら、この女をすぐに殺します」


 僕の作戦は見抜かれている。


「意図的にね。そんなつもりはないけど。とにかく、おまえは未来を見ることはできない」


 ごきごき、と嫌な音が由奈の首から鳴る。男が体重を由奈にかける。


「やめろ、わかった、端的に教えてやる。おまえが思い描いたとおりだ。七十億人死ぬ」

「つまり、ワクチンは効いたということですか?」


 僕は頷いて見せた。氷のようなガルシアの瞳に、一瞬安堵のようなものが浮かんで消えた。


「おまえはなんのために人々にワクチンを打って殺した? おまえ自身も死ぬ。目的はなんだ? 答えろ」


 ガルシアが答えることはなかった。すでに僕に対する興味を失ったようだった。


 僕は再び口にテープを巻かれて言葉を封じられる。


 インターホンが鳴る。部屋の中では音を立てないように、ガルシア含め沈黙を守っている。インターホンは鳴り止まない。そのうちドアがノックされた。鉄製の扉はごんごんと音を響かせる。


「警察です。騒ぎがあったと通報がありました」


 男達が小さく舌打ちをして、眉間に皺を寄せる。男達のその後の行動は素早かった。あらかじめ手順は決められ、その動作を覚えているように、よどみなくことは進められる。


 アジア系の男はまず由奈を仰向けにすると、包丁を手にして由奈の鳩尾に深々と突き立てた。その包丁は僕の台所にあるものだった。じわじわと由奈の腹から血が滲み広がっていく。


 次にポリタンクを逆さにして、透明な液体を僕と由奈の服に染みこませた。ベッドの方にも撒く。僕の鼻腔にガソリンの匂いが駆け上がる。


 その間も、警官はドアを叩いていた。


 白人の男は僕の口のテープを剥がすと同時に火を放つ。さらに、それと同時にアジア系の男が扉を開ける。


「助けてくれ!」


 僕は服から燃え上がる。警官が駆け込んでくる。由奈も燃える。部屋が燃える。


 そこまでだった。炎に包まれた僕の意識はあっけなく消えてしまった。

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