弐
「おはよう、裕二。昨日の結婚式、どうだった?」
月曜日、由奈はいつものように声をかけてきた。でも、笑顔の奥で怒りと不安がまざったようなぎこちない表情をしている。
「ああ、おはよう」
「昨日わたしのライン無視したでしょ?」
「あ、ごめん、返信忘れてた」
「なんかあった? 結婚式。あったんでしょ。見れば分かるよ。なんかいつもと違うもん」
見抜かれて、僕は肩の力が抜けた。
「さすが彼女なだけあるなぁ」
そう言って、僕は数日間を過ごした2031年の妻の肌を思い出してしまう。記憶がなかったとはいえ、由奈に申し訳ないと思ってしまう。同時に、2031年の妻にも。
「で、なにがあったの?」
「昼飯の時にでも話す」
僕はその後も浮かない感じで仕事をしたものだから、部長から小言を食らってしまった。
昼休みに由奈と昨日の話をしようとしたら、山沖先輩も一緒に来るという。断るわけにもいかないので、三人で定食屋に入った。今日のお薦めは鯖味噌。三人ともそれを注文した。鯖が美味しい季節になってきた。こうやって、自然は一年、コロナなど関係なく過ぎ去っている。旬の鯖を前にして、マスクだのワクチンだのと、人間は何をやっているのだろうか。
「先輩、奥さんとの仲、大丈夫ですか?」
山沖先輩は先日、奥さんが反ワクだと悩んでいた。そのせいで喧嘩して愛妻弁当も作ってもらえなくなったらしい。
「相変わらずだ。だからおれはここでこれを食ってる」
箸で鯖味噌を指す。
「まだ奥さん、打ってないんですか?」
ぜーったいに打たない方がいいですよ、と口を挟む由奈を忌々しそうに睨み、
「ほら、ここんところ、感染者激減じゃないか。だから、あんまり話題に上らないっていうか、触れる必要もないから、その件にはお互い触れないようにしている」
「まさに、触らぬ神に、ってヤツですね」
茶化すんじゃねぇよ、と先輩はふくれる。
「ただ、こんな感染減少もいつまでも続くわけじゃない」
「裕二は知ってるんでしょ、未来のこと。この後、第六波、七派はくるの?」
たしか、ヨーロッパを追うように感染は増える十一月にはロシアやドイツで過去最多になり、デンマークでは再びワクチンパスポートが導入される。埼玉県弁護士会がワクチンパスポート反対の声明をだしたものの、日本では多数に流れる感じでじわりじわりとパスポートが、まずは民間から浸透して、来年には接種義務化の流れになる。
「感染は多少は増えたり減ったりしますが、それよりも民間がいい子ちゃんのフリしてパスポートを始めちゃうんです。そこからやめさせないと。たしかこの後に来る株は感染力が強いんだけど重症化しないんだ」
「ならワクチンなんて要らないじゃん」
「でも、そうならないんだ。山梨だか長崎だったかどっかの知事がワクチン未接種者に対して外出制限要請かけたり、接種者と未接種者で学校のクラスを分けたりする」
「なにその知事。マジモンのクズだね」
由奈は驚くと言うより呆れて言う。
山沖先輩も顔を顰め、
「そんな知事、本当にいるのかよ? ま、おれも差別とかパスポートとかは反対だ。居酒屋とかでやってるところあるみたいだけど、そんな店行きたくもねぇ」
「だったら、奥さんのことも理解出来るんじゃないですか?」
「それとこれとは話しが別だ。おれの実家がワクチンパスポートみたいなこと始めてるからな。ワクチン打つまでは顔出すな、とか真顔で言ってくるんだぜ」
コロナ禍はとっくに終わっていたが、コロナ禍よりも遙にやっかいな、コロナワクチン禍がこの世界を席巻していた。
結局、昼休みには由奈と昨日の話は出来なくて、仕事帰りに僕のアパートに寄ることになった。
「裕二、先に外で待ってるよ」
僕がパソコンの電源を落としたり、ファイルを重ねてると由奈が背後で呟いて、そのまま通り過ぎた。一応、交際を社内には公にしないことにした。聞かれたら答える、くらいのスタンス。なので、山沖先輩には昼休み聞かれてしまったので正直に答えた。今のところ、社内で僕たちが付き合っているのを知っているのは先輩ただ一人だ。
その先輩から釘を刺される。
「あんまりいちゃいちゃするなよ」
「え、してないですよ」
「おまえ、嫉妬ってものしらないな。ちっちゃな会社だけど、由奈狙ってるの、何人かいるんだぜ」
「マジすか? ほとんど既婚者じゃないですか」
「未婚既婚問わず。早く帰れ。仕事の邪魔だ」
意味深な笑みを浮かべて先輩は残業に取りかかった。
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