寺には午前中に行った。駅から寺まで、僕は理恵の手を握りながら歩いた。特に意味はないのだけれど、なぜか手を繋いで歩きたいと思った。理恵もいやがることなく、僕の手を握り返してくれる。爽やかな、秋の一日。


 ここのところ、日増しにワクチン副反応による死者は増えていて、寺の駐車場は満車。喪服を着た黒い集団があちらこちらにいた。僕たちもその一つだった。寺の中にはいろいろな植物が植えてある。墓に覆い被さるような紅葉が青い空に映えている。


 内田家之墓。祖父母、両親、そして裕二が眠っている。僕が墓を磨いている横で、理恵は買ってきた花を花立てに飾れるよう切りそろえていた。


 線香を立てて祈る。祖父、祖母、父、母、裕二、ついでに僕の冥福も。


「裕二、あと九日で、僕もそっちに行くから、ちょっと待ってて」

「そういうこと言わないの」


 理恵が肘鉄を食らわせてくる。その目は笑っていなかった。


「でも、なにも言わないで、突然あっちに行ったら、驚くかも知れない」

「達也は残される人の気持ちなんて分からないんだよ。そりゃ、わからないだろうけど」


 僕はなんとなくその気持ちが分かるような気がした。

 理恵は突然、手を合わせて、


「裕二君、わたしはあと一千二百九十五日でそっちに行くからね。よろしく」


 たしかに、聞いていてあまりいい気分はしない。でも、僕には理恵を死なせはしないという、根拠のない自信があった。


「理恵は死なないよ」

「そんなことないよ。わたしも死ぬ。見てよ。ここがこんなに賑わうなんて、これまであった?」


 見渡せば、至る所で墓参りが行われている。線香の煙がいたるところから棚引いている。


 墓参りをすませ、寺の本堂の前を通り過ぎようとすると、たまたま本堂から降りてきた住職と目が合った。僕は会釈し、


「すごい、混んでますね」

「ああ、内田さん。ご覧の通りの忙しさです。坊主、まるで儲からず」


 住職は戯けて言う。


「墓参りに来ました」

「確か命日は昨日でしたな。弟さんも喜ぶでしょう。わたしもあと半年の命です」


 本当に忙しいらしく、額にはうっすらと汗が浮かんでいた。

 そう言えば、ほかの僧侶が見当たらない。昔はもっとたくさんお坊さんがいた。


「ひょっとして、もうご住職お一人?」


 恥ずかしそうに頷いて、


「最後のご奉公です。命ある限り、わたしはこのつとめを果たします」

「みんないなくなってしまいますね。最初、義章ぎしょうさんがお亡くなりになったときはびっくりで」

「あの時はまだワクチン副反応が公になっていない頃、ガルシアショックの前でしたからな」


 住職は呼ばれる声に引き寄せられるように、軽く会釈をすると、足早に去った。


 またデジャブに襲われた。それも、結構強力なやつで、僕はいったいどういう顔をしていたのだろう。


「ねぇ達也、大丈夫?」


 理恵の声で現実に引き戻される。


「……ああ、大丈夫、なんでもない」

「最近、多いよね。なんか突然、その、フリーズする感じ」

「昔のPCみたいに言わないでよ」


 僕たちは帰りに、食料品店でちょっといい肉を買った。今晩海津が来るから、ステーキでも焼こうということになって、サーロインがいいか、フィレがいいかでちょっと揉めて、ワインはフランス産がいいか、いや、同じ値段を出すならチリ産の方が美味しいとか。そんな日常の彼女との対立がたまらなく愛おしかった。赤と白を一本ずつ買った。


 六時ぴったりに、チャイムが鳴る。海津は来た。髪が肩に届くほど伸びていた。ただ、五年前と顔つきはほとんど変わっていない。少しやせたくらいだろうか。


「これ、土産」


 渡されたのはワインだった。三本揃った。今日はとことん酔えそうだ。


「海津君、久しぶり、上がって上がって」


 理恵が満面の笑みで促す。僕と理恵と海津は同じ高校に通っていて、理恵は最初、僕ではなく海津のことが好きだったんだ。


 五年ぶりだというのに、そんな歳月の隔たりはまったく感じなかった。僕たちは親友だった。海津は五年前ワクチン接種義務違反で逮捕され、すんでのところで強制接種を免れた。しかし、世間の批判から逃れることは出来ず、身を隠した。


 おかしな話だ。確かに、海津は法を破ってワクチンを接種しなかった。しかし、そのワクチンは人類淘汰のための道具だった。それが明るみに出た後でさえ、人々はワクチンを接種しなかった海津たちを責めた。悔しい気持ちは分かるが、怒りを向ける矛先が違っている。


「サーロインとフィレ、どっちがいい?」

「じゃ、フィレで」

「健康志向だな。おまえ、あと寿命は?」

「おれはワクチン打ってないから、寿命を計るとエラーになる」

「それは羨ましい」

「だから、明日死ぬかも知れないし、五十年くらい先かも知れない」


 五十年。もはや僕たちには想像出来ない年月だ。まるで使い切ることが出来ない膨大な資産のようなもの。


「僕はあと九日」

「わたしはあと一千二百九十五日」


 理恵は僕たちの会話を聞いていたらしい。台所から参加した。


「本当は、この世には分からないほうがいいことが山のようにあるのに、おれたち科学者はそれらを明らかにしてしまっている。科学者はみんなマッドサイエンティストなんだよ」


 僕たちはステーキを食べながら、ワインを飲んで、どうして海津がワクチンを打たなかったか、などの話しを聞いた。


 海津の告白は衝撃的だった。でも、なぜか僕はその話を冷静に聞くことが出来た。


「おれが打たなかった一番の理由は、ガルシアの警告だ」

「え、嘘っ!?」


 理恵は言葉を詰まらせる。


 ステファニー・ガルシアの名前を知らないものはいない。NID(国立感染研究所)所長、合衆国大統領首席医療顧問。世界中にワクチンを広めた人間の筆頭である。さらに、危険性が分かっていたにもかかわらず広めたことが発覚。


「そのガルシアじゃないよ。兄のアンソニー・ガルシアの方だ。アンソニーは脳機能学者で、留学中の教授だった」


 海津が留学から帰ってきたとき、その話は聞いたことがあった。当時はまだワクチンの副反応が公表されておらず、ガルシアはワクチンを世界に普及させた功績を讃えられていた。その兄から教わっていると海津は嬉しそうに話していた。


「ガルシアは海津君になんて警告したの?」

「まだ接種が開始された五月の頭くらいだったかな。理由は言わなかった。ただ、ひと言、絶対に打つな、って。二回、いや、三回繰り返してた。ネバー、ネバー、ネバー、って。今でも耳に残ってる。だから、おれなりに色々調べたんだ。もし、ガルシアの言葉がなかったら、忙しい毎日だ、何も考えずに打ってただろうな」


 理恵は絶句していた。


 確かに驚くべき話ではあるのに、僕はまたデジャブに襲われる。まるで、前にもこの話を海津から聞いたような錯覚。


「海津はさ、脳機能学やってたから詳しいと思うんだけど、最近よくデジャブに襲われるんだ」

「既視感か?」

「そう。やっぱり記憶のエラーみたいなものかな」

「いや、違う。前世の記憶が残ってるんだ」


 と海津は科学者らしからぬことを言った。


「冗談だろ? そんなのあるわけない」

「でも、記憶のエラーだっていう確証もないんだぜ」

「おまえ、科学者だろ? 本当に信じてるのか、前世とか」

「科学者はあらゆる可能性を排除しない。あり得ない、とか頭から否定するのは素人だ。もちろん、前世の記憶が残っているという確証もないがな」


 海津は楽しそうにワインを傾けた。


 時計は日付をまたいでいた。理恵がうとうとし始めた。


「理恵、寝てくれば?」

「……うん。男だけの話もあるでしょ。わたしは落ちます。おやすみ」


 眠そうな目を開いて、理恵は寝室に下がった。


 海津のグラスにワインを注ぐと、ボトルが空になった。新しいボトルを開ける。


「そうだ。一つ気になってた。どうして僕の番号、知ってたんだ?」

「知ってるもなにも、おまえ前から変えてないだろうが」


 だったら、


「なんでもっと早くかけてこないんだよ」

「いろいろ迷惑かかると嫌だったからな。ほら、おれは非接種の嫌われ者だ」


 海津は自嘲する。


「で、僕が死ぬ前に一度会っておこう、ってことか。旧友に会えるなら、死ぬのも悪いことばかりじゃないな」


 僕の冗談に、海津は困ったような表情を浮かべた。そして、ある決断をするように口を開く。


「達也、論理的じゃないな。どうして、おれがおまえの寿命を知っていると思った?」


 不意に酔いが醒めた。海津が僕の寿命を知るすべがあったのだろうか?


「なんで?」

「実は理恵ちゃんと一年ほど前にばったり会ったんだよ。そのときはちょっと立ち話しただけで、社交辞令ってわけじゃないけど、お前も入れてまた会おうとか言って、でも、おれはおまえに会うつもりはなかった。理恵ちゃんから連絡が来ることもなかった。だけど、一週間くらい前だったかな。理恵ちゃんから連絡がきて、おまえがもうすぐ死ぬことと、あと、おまえにデジャブがよく起きる、という話しを聞いた。それで、ひょっとしたら、と思った」


 海津はポケットから高さ五センチほどの小瓶を取りだし、机の上に置いた。中には液体が入っているようで、夜の光に揺らいでいた。


「なんだよ、それ」

「覚えてないか?」


 僕が知っているものなのだろうか。思い出そうとするが、記憶の隙間をすり抜けていく。


「ま、おれの研究だ」


 海津はつまらないおもちゃであるかのように吐き捨てる。


「ワクチンならお断りだぜ」

「ワクチンじゃない。飲み薬だ」

「飲むとどうなる?」

「おれは一晩苦しんで翌朝目が覚めた」

「なにそれ、副反応?」

「副反応と呼んでいいのか、残念なことに主作用がなにも認められなかった」

「なんの薬だよ、それ」


 海津はあごを撫でながら、


「これは、人間の意識を体と分離させることが出来る……、はずなんだけどな」


「意識と体を分離?」


 僕は首をかしげる。そんなこと、俄には信じられない。


 海津は念を押すように言葉を並べていく。


「意識や記憶を、体から分離させて飛ばすことが出来るんだ。理論的には。分かりやすく言うと、モバイルAからシムと記憶メモリーを取りだして、他のモバイルに移せば、移したモバイルは機種が違ってもモバイルAと呼ぶことが出来る。シムもメモリーもデータに過ぎないから、そのデータだけを移せばいい。人間の自我がシムで記憶がメモリー。だから、達也の自我と記憶を別の人間に移せば、その人間の中身は達也になる、ってこと」

「そりゃ、また開けたらダメな扉なんじゃないの?」

「科学者はみんなマッドサイエンティスト。特におれは。でも、まずはじめに自分で実験したんだから、すごく倫理的だろ?」


 そういうのを倫理的というのだろうか?


 僕は醒めてしまった酔いを戻そうと、グラスに残ったワインを飲み干してみたが、ワインの味がするだけで、酔いは戻ってこなかった。


「で、僕が被験者第二号ってわけ?」

「もちろん強制じゃない。自らの意志で飲んでもらう。同意なく飲ませることはしない」


 どこかで聞いたことがあるような言い回しを、海津は可笑しそうに言った。


「分離された自我と記憶は物質じゃないんだ。空間だけじゃなく、時間も自由に移動出来ると考えられる。ただ構造的に、意識のない個体に移ると思う。その方が干渉が少ないから。だから、有り体に言えば、脳死とか、気絶とか、意識を喪失している個体に移るのではないか、っておれは推測してるんだけど」

「理論的にはってこと?」

「そう。だから、おまえのデジャブの話しを聞いたとき、もしかしたら、と思った。おれがもしこの薬を誰かに飲ませるなら、もっとも仲がいいやつだろう、って。で、おまえはなんらかの事情があって、過去の記憶と現在の記憶が混在してしまっている」


 前世の記憶が残ってる、とはここに繋がるのか。


 小瓶を手にとって眺めた。なんら変哲のない液体が入っている。これで、自我と記憶が分離されるなんて、俄には信じられない。


「もし仮に、上手くいって、僕が誰かの体の中に入ったとする。そうすると、その体のもとの持ち主はどうなる?」

「動物実験はした。健康被害はそれほどないと思う。ただ、動物だとその自我と記憶がどこに飛んだか確認出来ない。まだ第Ⅰ相すらクリアしてない治験中の薬品だよ」

「副反応はなんだっけ?」

「一晩苦しむ。事例は一つだけだけ」


 どうせあと九日で死ぬ。違う。モバイルで確認すると、あと八日で死ぬと表示されていた。


 僕は台所に下がってワイングラスを洗って戻った。


「どうせなら、グラスで飲むよ」


 海津はグラスに、まるで酌でもするように薬品を注いでくれた。


「もし意識が別の誰かの体に入ったら、おれに会ってこう伝えてくれ。『今日陽が西から昇った』って。おれしか知らない合い言葉だ」


 今日陽が西から昇った。呟き頷いて見せた。


 乾杯でもするかのようにグラスを掲げて、僕は一息でその液体を飲み干した。

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