第五章 寿命はあと十九日

We’ve been patient, but our patience is wearing thin. And your refusal has cost all of us. So, please, do the right thing.


Remarks by President Biden SEPTEMBER 09, 2021



もう我慢も限界です。あなたの拒否が我々全員を犠牲者にするのです。どうか、ワクチンの接種を。


ジョー・バイデン 合衆国大統領 2021年九月九日 連邦政府職員および従業員100人以上の企業に対し接種義務化の演説






―2031年―





 僕は怖い夢を見たような気がして飛び起きた。いつものベッドの上だった。なにも変わらない、昨日までと同じ部屋。常夜灯がぽつりと天井で淡い光を放つ。隣では理恵が安らかな寝息を立てていた。枕元のデジタル目覚まし時計を見れば、十月二日の午前二時だった。僕は唐突に妻を抱きしめた。妻の呼吸以外の音はない。静まりかえった深夜。僕はベッドから抜け出して、一杯の水を飲んだ。


「どうしたの?」


 ベッドに戻ると、妻が身を起こしていた。


「いや、どうもしない。嫌な夢を見ただけ」

「どんな?」


 あまり話すことに気が進まなかったが、


「弟がさ、車に轢かれちゃうんだ」

「ごめん、そういう夢だと思わなかったから」

「理恵が謝ることじゃないよ」


 なにかがおかしい。弟は交通事故で死んだ?


「なぁ理恵。裕二は交通事故で死んだんだよな?」

「え、そうだよ」


 理恵が不安そうな表情を浮かべる。


「ごめん、そうだよな。なに言ってんだろう僕は」


 弟の裕二は交通事故で死んだ。僕たちの結婚式の当日、式場へ向かう途中の交差点でトラックに轢かれた。即死だった。


「だったらどうして、僕たちはワクチンを打ったんだろう?」


 自分でもなにを言っているのか分からない。


「どうしてって、普通に打ったよ」

「どこで?」

「区の病院で、予約して、一緒に打ったでしょ? 大丈夫?」


 妻の目には怯えのようなものが浮かんでいた。


「だよな。ごめん。そうだよ。理恵の言うとおり」


 ちゃんと思い出せば、僕の記憶も妻の言ったとおりだった。僕たちは、もう一度眠った。


 僕が目を覚ました時、妻はまだ眠っていた。起こさないように起きる。顔を洗って、歯を磨き、髭を剃り、髪をとかして、シャツを着て、スラックスをはく。少し肌寒いのでジャケットも羽織った。腕時計も嵌めた。弟が結婚式の一週間前、理恵に預けてくれた腕時計。ステンレスベルトに、三針のシンプルなもの。時計は時を刻み続けている。弟の時は僕たちの結婚式の日に止まってしまった。リューズを巻いて、時を止めないようにする。


 朝飯を食うべきか、喰わざるべきか、そんな悩みを抱えていると、妻が起きてきた。


「おはよう。あれ? 会社とか、呼び出された?」

「おはよう。いや、呼ばれてないよ」


 僕は先週退職した。引き継ぎなども全て終わっている。今日会社に行く予定はない。それなのに、僕はスラックスをはいて、ジャケットを羽織っている。なぜ、僕はこんな格好をしているのだろうか。僕はトーストを焼いて、朝ご飯を食べた。


 理恵は朝食をとる暇もなくバタバタと忙しそうに身支度を調える。


 午前八時半を回った頃。


「じゃ、行ってくるね」


 理恵は出かけた。


 誰もいない部屋で、僕はなにもすることがない。モバイルに表示された僕の余命は、昨日から一日減って、残り十九日になっていた。


 着ていた服を脱いでジーパンとパーカーに着替えた。


 ぽつんとマンションの一室で一人たたずむ。暇がだんだん充満してきて、書道でもしようと思い立つ。いつも使っていた清代の歙州硯が見当たらない。しばらく探して、ダイアモンドを買うために売ったことを思い出した。他にも気に入っている硯は何面かある。今日は近代の端渓を使おうと、書道具が入った棚を漁っていると、上品な印箱が手元に転がった。


 裕二の遺品だった。あいつ、書道なんかとっくの昔にやめたくせに、なぜか死んだとき道具を一通り残していた。紙だけいいものを使っていた。わからないのが、この青田石だ。篆刻刀もないのに、どうして石だけ持っていたのだろうか。まとめて誰かにもらったのだろうか。


 半紙を広げ、墨を磨る。さて、なんて書こうか。書くことが決まらずに墨を磨っていたら、随分と濃墨になってしまった。筆にたっぷりと墨を含ませてみるが、未だに書く字が決まらない。とりあえず、「一」と上半分に大きく書いた。その「一」を見ていたら、左下に「夕」が浮かび、右には「ヒ」が現れる。見えたままを筆でなぞる。


 死。間抜けな文字だった。僕はもう一枚半紙を出して、今度はちゃんと、北魏っぽい線質で渇筆も出しつつ、「死」と書いてみた。エクスクラメーションも二つ付けてみた。「死!!」あと十九日で死ぬというのに、全然実感が持てない。なんでワクチンなんか打ってしまったんだろう。どうして、政府はワクチンによる人類淘汰を見抜けなかったのだろう。政府も荷担しているのか。でも、官僚でも政治家でも死んだ人たちは大勢いる。全てはフェイクニュースか?


「虚」と書いてみる。コロナさわぎの時から、なにが真実かは分からなかった。ワクチン騒ぎで、ますます分からなくなり、訳が分からないまま僕らは淘汰されてしまう。もう一枚、半紙を出して「人生」と書いてみる。僕はまだ死にたくなかった。ワクチンさえ打たなければ。ワクチンパスポート、接種義務化、世間の目、同調圧力、マスコミの報道、あの当時、ワクチンを打たないなんて選択肢はなかった。なかったけれど、もしワクチンさえ打たなければ、僕はまだ生きられたのに。


 人生の生を○で囲んでみた。


 一週間はあっという間に流れる。


 そして、十年目の結婚記念日がやって来た。


テレビが嘘みたいに明るい声を張り上げていた。


 十月十日、時刻は午後八時三十分です。さぁ! 今日取り上げるのは、こちら! 【エクストリーム系アミューズメントが大流行】ということで、エクストリーム・スポーツと言えば、ロッククライミングやフリースタイルスキー、ラフティング、ムササビスーツなどが有名ですよね。ですが今回の特集はストリートリュージュです。二千年初頭に流行したアミューズメントがリバイバル。しかし、今回のは以前のとはひと味違うんです。どこが違うかと言いますと、わざと交通量の多いところで行います。そんなことをして、車に轢かれたりしないの? と疑問も持たれたかたも多いと思いますが、実際に今年に入ってから、二百五十名弱のかたがお亡くなりになっています。そんなストリートリュージュ、実際に取材をしてわかったことは、危険だからこそ面白いということなんですね。ストリートリュージュに限らず、雪山やムササビスーツなど、最近非常に人気が高くお亡くなりになるかたも後をたちません。お気づきの視聴者のかたもおられるかも知れませんが、一昨日からお天気お兄さん変わりました。気象予報士の斉藤さんも雪山に登ったまま――


 テレビを消すと部屋が落ち着きを取り戻した。


 十月十日。結婚記念日。僕たちは式を挙げた日を記念日にしていた。そして、この日は裕二の命日でもあった。だから、お祝いはいつもぎこちない。裕二はきっと僕たちがぎこちなくすることを喜ばないだろうから、もっと賑やかにやればいいのだけれども、簡単に気持ちは割り切れない。


 いつもは墓参りに行って、そのあと結婚記念日を祝う。今日は理恵がどうしても外せない仕事があったので、明日土曜日に行くことにしていた。墓参りは故人のためというよりも、生きている自分たちの免罪符のようなもの。今日は免罪符を持っていなかったから、ケーキの甘さがいつもより口に残る。


 僕は妻にダイヤのネックレスを買ったつもりでいて、開けてみたらイヤリングが出て来たのでちょっと焦った。最近、こういう勘違いが多い。定員にスイートテンダイヤモンドのお薦めを聞いたら、ネックレスとのことだったが、裕二が結婚記念にくれたのがダイヤのネックレスだったからイヤリングにしたことを思い出した。


 理恵ははにかみながらイヤリングを両耳に付けた。わざと薄暗くしている室内で、ダイヤモンドが高貴な光を放つ。


「ありがとう。高かったんじゃない?」

「実は貴重な清代の一面持ってたんだ」

「あんな石くれお金になるの?」

「なるよ。そんなこと言ったら、ダイヤだって石くれ。他の硯や墨も、僕が死んだら売ってくれて構わない。そんなに高いものじゃないけどね」


 話しながら、デジャブを感じる。デジャブは記憶の綾でしかないが、どこか別の時空に自分がいたような、そんな錯覚に震えを覚えることがある。


「わたし、まだ達也に死んで欲しくない」


 理恵は涙声だった。


 モバイルを確認すると、僕の寿命はあと十日だった。


 ケーキも食べ終え、珈琲を飲みながら、僕は何の気なしに、


「僕が死んだら、理恵はまだ三年以上あるわけだし、僕に気兼ねなく好きなことしたらいいからね」

「なにそれ?」彼女は俄に表情が固まり、「そっか。もし達也よりわたしの方が先に死んだら、達也は好きなことして生きるの? わたしと一緒じゃ好きなこと出来なかったっていうこと?」


 そんなことはひとことも言っていないし、思ってもみなかった。


「もし、君が先に死んだら、僕も死ぬ。……いや、そういう意味じゃない」


 慌てて取り繕う。僕はなにを言っているんだろうか。僕ではない、もう一人の僕が話しているかのように、自分の声が聞こえてくる。


「僕は、ただ理恵に、僕がいなくなった後も幸せになってもらいたい。それだけ。それ以上でもなければ、それ以下でも――」


 理恵は僕の前に両手を押し出して、僕の言葉を遮った。


「やめようよ。未来の話しは。まだあと十日もあるんだよ。この十日間、二人で過ごして、たくさん楽しいことして、美味しいもの食べて、欲しいもの買って、行きたいとこ行って、観たい映画見て、読みたい本読んで――」


 今度は僕が理恵の言葉を遮る。


「十日じゃ到底出来そうにないよ。あと十日、一緒にいて欲しい。それで十分」

「もちろんだよ。休みも取ったし、会社の電話にもでない。達也と一緒にいる」


 僕は彼女が好きだった。結婚してよかった。そう言ってもらえるだけで、幸せを感じることができた。そんな感動的な夫婦の会話を邪魔するように、僕のモバイルが震えた。知らない番号からだった。ここ数日、行政や医療機関や保険屋などから電話がかかってくることが多く、知らない番号には慣れていた。でも、今はもう二十一時を回っている。訝しがりつつ出てみると、


「あぁ、もしもし、達也か?」

「まさか、おまえ」

「おう。そのまさかだ」


 電話の向こうでおかしそうに笑っている。


 海津だった。


「今日結婚記念日だろ? おめでとう」

「ありがとう」


 海津には結婚式で友人代表を務めてもらった。


「結婚記念日邪魔しちゃ悪いから、手短に要件を言うが――」

「もう邪魔してくれたよ。最高にいい雰囲気だったのに」

「それは済まない」


 全然済まなさそうに聞こえない。


「おまえ、五年ぶりだろ。これまで、なにしてたんだよ」

「その話しも含め久々に会いたいなって。急で悪いが明日行っていいか?」


 台所に食器を下げている理恵に、明日海津が来るけどいいか聞いてみた。


 明日は裕二君のお墓参りだから夜ならいいんじゃない? とのことだ。


「夜でいいか?」

「ああ。そのつもりだった」

「晩飯でも一緒に喰おう」

「オーケー。楽しみにしてる」


 ということで、急遽、明日海津が来ることになった。


 僕と理恵は顔を見合わせて、思わず笑ってしまった。


「どうする? どっか食べに行くか?」

「でも、ここの方が落ち着いて話せるんじゃない? わたし久しぶりに料理作るよ」

「僕も手伝うよ」


 夜、彼女を抱いた。十年たってますます綺麗になった。若い女性とは違う。急に若い女性との情事が頭に浮かんだ。そんな光景は一瞬で消えたのだけれども、なんか浮気をしたような気がして、慌てて僕は彼女の唇を塞いだ。

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