伍
金曜はちょっと仕事が伸びたので、今日も由奈と一緒に晩飯を食ってから帰る。まだ八時前なのに入った店がアルコールラストオーダーになってしまい、店を変えるのも面倒だったので、コンビニでビールを買って僕の部屋で飲む。
由奈は缶ビールをパシュっと開けて、
「会社の中ではもうわたしたち付き合ってることになってるみたいだよ」
と由奈はにやにやしながら言う。
その噂はもう僕の耳にも届いている。いつも昼を一緒に食べて、一緒に帰って、いまはこうやって僕の部屋で一緒に飲んでいる。そう判断されるだけの材料は揃っている。
「それでも、僕たちは付き合っていない」
「それでも地球は回っている、みたいに言わないでよ」
「恋人じゃなくて、同士、だろ?」
「同士が恋人だっていいんじゃない?」
由奈のことが嫌いなわけではなかった。むしろ好きだった。でも、僕には妻がいた。妻は死んでしまったが、気持ちの切り替えは出来ないし、この時代には、死んだはずの妻が生きている。その妻はこの時代の僕の妻だから、十年後からやってきた僕が恋してはいけない存在。それに、この体は弟のものだ。もし、僕の心が消えて、弟の心がこの体に戻ったとき、由奈を悲しませてしまう。
恋愛観や、会社の話し、もちろん、これからのワクチンの話などをしながら、僕たちはそれぞれ三本ほどビールを飲む。
「裕二、今週の日曜もデモあるよ。前回よりも派手になるか、大人しくなるか。どうする? 行く? わたしは行く」
「ごめん、その日兄貴の結婚式」
「あ、そういえば、言ってたね。日曜だって。じゃ、わたしはそろそろ帰ろうかな」
時間を見ると十時四十分だった。
「駅まで送るよ」
「ありがと」
由奈は缶の底の方に少し残っていたビールを呷った。携帯を鞄に放り込んで立ち上がったときだった。嫌な呻りのようなものを感じた。そして、次の瞬間、揺れ始める。
「由奈、デスクの下に入ってろ」
彼女の腕を取って、デスクの下に押し込む。本棚に適当に積んであった本が数冊落っこちる。僕は本棚自身が倒れてこないように押さえる。
揺れはしばらくして止んだ。3.11ほど大きくはなかったが、それなりに大きな地震だった。
「あぁ、怖かった。結構大きかったよね。久しぶりに」
彼女は机の下からゆっくり出てくる。
僕は思い出した。結婚式の直前に地震があって、親父の形見のマグカップが、テーブルの端から落っこちて割れてしまったんだ。
緊急地震速報などを見ると、余震に注意と出ている。
「おまえ、余震、来るかもしれないって」
由奈もスマホを見ていた。
「電車は止まっちゃってるみたいだけど、タクシーで帰るよ」
確か、記憶では余震らしい余震はなかったはず。でも、万が一余震があったら危険であることは確かだ。
「べつに、泊まってってもいいよ」
「そんなことしたら、付き合ってるみたいじゃない?」
「大丈夫――」
「それでもわたしたちは付き合ってない」
と僕が言おうとした台詞を由奈は奪った。
由奈は一人暮らしだと思っていたら、実家暮らしだったようで、母親に友達の家に泊まってくる、と電話していた。
僕はこの時代の僕に電話をかける。この前の電話でしこりが残っていたが、それよりも僕は歴史が変わっているかどうかの確認をしたかった。
互いに安否を確認した後、
「僕の方は、本棚から本が落ちてきたりした。ところで、兄貴、なんか壊れたりしなかった?」
「いや、なにも」
「親父の形見、あのNoritakeのマグカップ、大丈夫?」
「大丈夫もなにも、今それで珈琲飲んでるよ」
やはり、歴史が変わっている。微妙に、目に見えない範囲だが、歴史は変わっている。
「ちょっとコンビニ行ってくる」
由奈は鞄を手に取る。
「僕も行くよ」
「大丈夫、一人で」
「小腹空いたから、なんか買う」
由奈はさっさと鞄をもって出て行ってしまったので、僕は追いかける形になる。コンビニで由奈は下着を買っていた。僕はコッペパン。彼女も食べるかもと、一応二つ買った。
コンビニまでは二百メートルほどだった。湯島はラブホテルが多い。彼女はそのひとつを見上げて、
「飲食店は休業要請だけど、ラブホテルに休業要請はないのかな?」
「聞かないよね」
「絶対、ラブホテルの方が感染すると思うんだけど」
「そもそも、飲食店で感染するっていうのも設定。逆に電車はどれだけ混んでても感染しない設定」
「ラブホテルも感染しない設定なんだね。少子化対策」
十一時を回ると、流石に道を歩いている人は減る。朝とはまるで別の場所にいるような、静かな夜の東京が僕は好きだった。静かな東京というのは、うるさい東京があって初めて存在する。十年後の未来では、もううるさい東京はない。
部屋に戻って、僕はユニットバスを簡単に清掃した。
「もしよかったら、シャワー、使っていいよ」
「じゃ、そうさせてもらおうかな」
「なんか、パジャマに出来そうなもの、あると思うんだよね」
クローゼットをかき回す。弟は意外に衣装持ちで、所狭しと服がしまってあった。いくつか引き出しがあって、その中に雑然と詰め込まれていた。なにか、スエットのようなものがあれば、サイズは大きいが着てもらうことが出来るだろう。由奈は後ろからクローゼットに顔を突っ込んでいる。
引き出しの中の服を適当に取りだしていると、その奥からコンドームの箱が出て来た。
「あれぇ、裕二君、そんなの使う相手いるんだ?」
目ざとく見つけて由奈がからかう。
弟に恥を掻かせるわけにはいかないので、僕は強がり、
「あたりまえだろ。健康な青年男子だぜ」
「でも、それ、未開封だよ」
未開封な上に、箱をよく眺めると、消費期限も切れていた。弟、しっかりしろ。
「ぼ、僕は、たぶん、ナマでやるタイプ」
言い訳どころか墓穴を掘っていた。
「アンタ、最低だね」
「うるせぇ。ほら、これ着られそうだぞ」
灰色のスエットの上下が出て来た。それと、バスタオルを由奈に渡した。
会社のみんなには秘密にしておいてあげるから今度一杯おごってね、とニヤニヤしながら、浴室に入っていた。
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第四章 生きている妻 09
風呂上がりの彼女。湯の匂いか、熱を溜めた肌の香りか、部屋に広がった。もともと化粧気がなかったが、完全に化粧を落とすと幼さに拍車がかかった。
「こら。じろじろ見るの禁止」
僕もシャワーを浴びる。彼女が入った後の浴室は蒸気が充満している。だれかの後に浴室に入るのは久しぶりだった。妻との暮らしを思い出してしまった。
風呂から出ると、由奈は濡れた髪にバスタオルを巻いて、ベッドに座っていた。その姿が、どことなく妻と重なった。
気軽に泊まっていけば、とは言ったものの、僕はソファーで寝る、などと格好いい真似は出来ない。この部屋にソファーなどない。ワンルームだ。ベッド以外に人が寝られるスペースは、流しの横か、ベッドとデスクの間しかない。どちらも板張りである。
大体乾いたかな、と由奈は頭のバスタオルを取る。
「なにか、枕、ないかな?」
コンドームはあるくせに、枕はひとつしかない。僕はクローゼットのタオルをまとめて渡した。
由奈は器用にそれをまとめて、頭の下に敷いた。
「寝ようよ。電気消して」
由奈はベッドの端の方へ寄る。それは、僕がとなりで寝ていいと言うことなのだろうか。冷静に考えれば、この部屋で他に寝られる場所はない。
僕は電気を消して、由奈の横に寝た。狭いベッドだった。肩が少し触れてしまう。彼女の呼吸も伝わってくるし、温もりも、鼓動さえも伝わってくる近さだ。
急に、衝動的に、隣にいる彼女を抱きしめたくなった。僕は彼女に恋をしていたのだから、それは当然のことかもしれない。
カーテンの隙間から入るかすかな光に、彼女のシルエットが浮かぶ。
由奈は不意に寝返りを打ってこっちを向いた。暗さに慣れてきたせいか、彼女の表情が見えるようになった。
「それでも、わたしたちは付き合ってない」
残念そうに、寂しそうに、確認するかのように、由奈は呟いた。
僕は頭を少し動かして、由奈にキスをした。
「そんなことない。僕たちは付き合ってる」
「ほんと? でも、裕二、わたしのことあんまり好きじゃなかった」
「前の裕二がどう思ってたか知らないけど、今の裕二は君のことが好きなんだ。そう。今の裕二は」
「なにそれ」
だから、もし僕がこの裕二からいなくなって、昔の裕二が戻ってきても悲しまないで欲しい。そんな願いがたちの悪いわがままに過ぎないことは自覚している。でも、僕はもう自分で自分を抑えることが出来なかった。だから先に謝っておく。
「ごめん」
「だから、なにそれ」
僕は彼女を腕の中に引き寄せた。人を抱きしめるということ。抱きしめることが出来る人がいるということ。心が満たされていった。
十年後の世界は、ワクチンによって人が次々死んでいく。僕も抱きしめる妻を失った。今ならまだ、未来を変えることが出来る。日本ではまだワクチンパスポートも、ワクチン接種義務も始まっていない。しかし、アメリカでは労働者に接種義務が、イスラエル、イタリア、フランスではグリーンパスが、オーストラリアではワクチンの事実上の義務化が、今この瞬間行われている。これらの接種義務はさらに強力になり、年齢も五歳にまで引き下げられる。そして、年二回の接種義務が地球規模で行われ、人類淘汰が実現してしまう。いまならまだ防ぐことが出来る。それをするために、僕はこの時代の弟の体に移った。
絶対に、護る。彼女の体をもう一度抱きしめた。髪はまだ少し湿っていた。
翌日の午前中、彼女を御徒町の駅まで送る。僕はTシャツの上にバブアーを羽織り、ポケットに手を入れて歩く。随分涼しくなってきた。
「わたしたちは付き合っている。でも、全然そんな気がしない。昨日と変わった気がしない。特別な関係になった気がしない。なぜだぁ」
と由奈はしかめ面して僕を睨む。
僕も全然変わった気がしない。昨日までは同士、今日からは恋人同士、好きだという気持ちが伝わっているのかも定かではない。
「いいじゃん。なんか自然で」
「きっと、これが所帯じみてる、ってやつかな。交際一日目から所帯じみてる」
彼女にも、妻のような安心感を覚える。きっと、このまま何ごともなければ、僕は彼女と結婚するだろうな、と漠然と感じた。
「手とか繋げば、すこしは恋人の雰囲気が出るかもよ?」
僕はポケットから手を出して、彼女の手を握った。彼女はその手を握り返す。
そのまま、駅まで、数分間黙って歩いた。たったそれだけのことが、とても幸せだった。
「明日、デモ行くんだろ? 気をつけろ。また暴動みたいなこと、起こるかも知れないから。すぐ逃げろよ」
「心配してくれるんだ?」
「当たり前だろ」
「結婚式、お兄さんのこと、たくさん祝ってあげてね。じゃ」
彼女が改札に消え、見えなくなると、急に空しさが襲ってきた。もっと一緒にいたかったんだな、とはっきりと分かる。明後日会えることは分かっているのに、今すぐに会いたい。
そんな気持ちを抱えつつ、クリーニングに出した礼服を受け取って部屋に戻った。机の上には開封されたアレの箱。消費期限は過去の日付を示している。僕は未来から来た。過去、現在、未来、これまで疑うことのなかった不可逆的な直線が歪む。
翌日、十月十日、この時代の僕と理恵の結婚式だ。僕は礼服に白いネクタイを締める。僕が僕の結婚式を祝うというのは、なんとも妙な気持ちだった。素直に祝えるだろうか。違和感を与えてしまわないだろうか。そんなことを考えていたら、乗ろうとしていた電車を一本逃してしまった。
乗りあわせが悪く、式場の最寄りの駅に着いたときは予定より十五分も遅れてしまっていた。駅から式場までは歩いて五分くらい。僕は早足で式場へ向かった。渡ろうとしていた交差点の信号が点滅を始めた。
そこそこ大きな交差点だったから、一度信号が変わってしまったらしばらく待たされることになりそう。僕は走って点滅する交差点に入り、半ば渡ったときに赤に変わった。僕も急いでいたが、そのトラックも急いでいたのかも知れない。エンジンを呻らせて強引に右折してきた大型トラックに、僕は押しつぶされた。
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