この時代、ワクチンを打った打たないという話題を、打った人間にしろ、打たない人間にしろ、なんとなく避けていた。だから、理恵は聞きにくそうに、遠慮がちに、ワクチン打った? と言った。


「いえ、あまり気が進まなくて、打ってないです」


 ぱっと彼女は顔を輝かせた。


「やっぱり。だよねっ。わたしもあれ、なんか怪しいと思ってるんだよね。あんまり人には言えないけどさ」


 僕は思わず前のめりになり、机をガタリと揺らしてしまった。なにから伝えようか、未来の話しをそのまま伝えても、SFの見すぎだと思われるだけだろうか。僕は冷静を装って、


「ですよね。なんかイスラエルとかデータ見ると全然効いてないし、この前の群馬の施設のクラスターなんてみんな接種者で、感染率は二十四倍ですよ、未接種者の。マイザーが七月に四万人の研究結果で死亡者数は接種者もプラセボも変わらないって発表している。そもそも、このコロナ騒動で亡くなってる人数、インフルエンザや自殺と――」


「裕二君」と理恵は僕のヒートアップする言葉を遮る。「ワクチンが本当に効くなんて思っている人はごく僅か。みんなワクチンの効果なんてどうだっていいと思ってる。打たなきゃならない空気、それがわたしにとっての悩み」


 彼女を殺したのは僕だったのかも知れない。裕二の死もあり、僕は彼女を渋谷の接種会場に連れて行って一緒に打った。あのとき、彼女はなにも言わなかったけれど、僕のやったことは彼女にとって圧力でしかなかった。僕は世間の空気と一体化して、彼女の心を潰していた。彼女が言う、打たなきゃならない空気、の発生源が僕自身だった。


「ごめん」


 思わず謝っていた。


「……? なにが?」

「だって、兄貴、ワクチンに危険性感じてないし」

「普通の人は感じてないよ。だから空気になっちゃう」

「もし、兄貴が先輩の意思を無視して強要してきたり、少しでも軽蔑するようなことしたら、すぐに別れていいから。そんな兄貴は先輩の夫として不合格です。僕が落第させる」

「ありがと。でも、達也はそんな人じゃないよ」


 その後、僕たちはたわいもない話をした。時々、僕は達也の記憶に触れてしまって、あれ、どうして裕二君が知ってるの? などと驚かれる。いや、兄貴から聞きました、などとごまかす。


 死んだ妻と、こうやって話しが出来るなんて、まるで夢だ。十年前の弟の体に入っているというのもまさに夢なのだ。この夢の世界の平和を護る。彼女を護る。由奈を護る。僕自身である達也も護ってやる。それがきっと、この世界にやって来た僕の使命に違いないから。


 僕は歩いて帰れる距離。理恵は小川町から帰る。手を振って改札の奥へ消える理恵を見送った。その姿が由奈と重なった。理恵は僕の妻だ。でも、この十年前の世界の理恵は、十年前の僕の妻だ。裕二の体に入っている僕の妻じゃない。どんなに頑張っても、僕の愛は彼女には届かないし、届いたらダメなんだ。地上へ続く階段を上がりながらそんなことを思った。とぼとぼと、酔いを覚ましながら、夜の外堀通りを歩いた。


 それよりも、この世界の僕である達也は、理恵がもしワクチンを打たないといった場合、不思議がって、おそらく、ちょっとした説得も試みて、打たせようとするはずである。それは、悪気があってのことではないが、彼女の心を曇らせてしまう振る舞いだ。


 仮にこの時代の僕を説得して、今ワクチンを打つことを回避できたとしても、このあとのワクチンパスポートやワクチン接種法による義務化をどう回避していくかという問題が残る。あまりの前途多難さに、気がつくと僕は昌平橋の上で、「あぁぁぁ……」と呻ってしまっていた。


 アパートに戻ると同時にこの時代の僕から電話がかかってきた。


「裕二今日はごめんな、急に店舗で問題が起きてさ」

「いいよ。忙しいのは分かってる。来週会えるの、楽しみにしているから」

「そう言ってもらえると助かるわ。理恵も喜んでた。おまえのこと褒めてたぜ、随分変わったって」

「僕も先輩に会えて嬉しかったよ。あ、兄貴、先輩泣かすようなことしたら、マジで許さないから。冗談抜きで」


 電話の向こうの僕は笑っていた。その笑いは本心からの笑いか、それとも、思い当たる節があるのでごまかすための笑いか、この僕ですら判断がつかなかった。


「そんなことしないように頑張るから。安心しろ。それより、時計ありがとう。高かったんじゃないか?」

「高かった。使ってくれると嬉しい」


 電話を切る雰囲気になってきたので、僕は慌てて、


「兄貴、ワクチン、予約とかしたの?」

「ああ。したよ。明後日打つ」


 お願いだからやめてくれ。


「先輩も一緒に打つの?」

「いや、仕事の都合とかあるから、別々に予約したよ」


 せめてもの救いだった。


 僕は平静を装って、


「でもさ、なんかワクチン効かないらしいじゃん。もうちょっと様子見てもいいんじゃない? 打っても感染してる人多いし」


 電話の向こうの僕はため息をついて、


「もう予約もしちゃったしな」

「そんなもん、取り消せばいいじゃない」

「ぶっちゃけ、僕が打とうが打つまいが、おまえには関係ない話だろ。それに、僕一人の問題じゃなくて、社会のためってのもあるしな」

「社会ってなんだよ」

「社会は社会だ。おれたちが生きているこの現実を護るためだよ。だから、おまえも打てよな」

「いやだ。打たない」


 アッシュの同調圧力実験ではないが、みんなが間違えた答えを選ぶことによって、次の人の選択肢が間違えた方向に引き寄せられる。そして、社会とやらは滅び行く。


「僕のためだと思って打ってくれよ」とこの時代の僕は妙なことを言い始めた。「たとえば、僕が感染したとする。それでおまえと会う。そのとき、ワクチンを打ってないおまえが僕から移って、重症化してしまう。ワクチンを打っていれば重症化しなかったのに。たぶん、おまえはそれでもいいと言うと思うけど、僕はおまえを重症化させたくないから、打っておいて欲しい。結局自分のためと言われたらそうかもしれない」

「じゃあ、僕がワクチンの副反応で重症化する分には構わないってこと?」

「そうは言ってない。だって、ワクチンで重症化する確率、コロナで重症化する確率よりも低いだろ?」

「そんなことない」僕はスリープになってるPCのキーボードを叩く。「新型コロナウィルス感染症、死亡者性・年齢階級構造、日本、2021年九月二十七日時点、二十代の死亡者数、二十六人だよ。出典は国立社会保障、人口問題研究所。この一年半で、たったの二十六人だよ。ワクチン後の死亡は全年代併せて千人超えてるわけで、厚労省の心筋炎の報告だって、ほんの四人しかいないのを、百万人あたり換算して八百人とか盛りに盛ってる」

「じゃ、仮におまえの言っているように、コロナよりもワクチンの方が危険だとして、なんで厚労省はそんなものを国民に打たせたがるんだ?」


 厚労省もマイザーもわかりにくくはしているが、ワクチンが危険であるデータは示している。だから、この時代の僕の問いへの回答は、


「僕たちが打ちたがってるからだよ」

「べつに打ちたがってるわけじゃない」

「なら、打たなきゃならないような空気が醸成されているからって言おうか?」

「これ以上おまえと話しても無駄だな。とにかく、結婚式で変なこと言うなよ。それだけは頼むわ」


 この時代の僕は電話を切った。


 ガルシアショックの後に様々な検証がなされた。なぜワクチンは打たれたのか。ガルシアは人口削減のため。製薬会社は売り上げのため。政治家は票のため。マスコミは視聴率のため。一般市民は自分のため、もしくは、社会のため、もしくは、空気のため。

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