メルボルン、ニューヨーク、ミラノ、パリ、オタワ、ベルン、テルアビブ、アテネ。

 デモは世界中各地で起きていた。普通にニュースサイトを見ただけでは、これらのデモは現れない。検索しても引っかからない。しかし、ツイッターやSNSをちょっと探せば、映像付きでデモの様子が見られる。一部はデモというよりも暴動のような形になっていた。


 日本でも僕が裕二の体に入る数日前の九月十八日、反コロナ、反ワクチンのデモが、京都、大阪、東京池袋などで行われていた。映像を見る限り、小さいデモではない。かなりの人たちがいる。なのに、デモが行われていたことをどれだけの人たちが知っているのだろう。


 マスコミは報道しない自由を行使して、これらのデモを一切取り上げない。SNSで流れていても、マスコミが取り上げないと多くの人には届かない。マスコミは反ワクチンデモのなにを恐れているのだろうか。陰謀めいた力が働いていて、マスコミは意図的に取り上げないのだろうか。


 空の青さが染みる。風も穏やかで絶好の観光日より。そんな穏やかな天気の下、新宿パルコの前はすでに人だかりが出来ていた。デモ参加者だけではなく、警官隊や機動隊のバスなども駐まっている。


 小柄な由奈を発見するのは不可能だったので、電話をかける。お互い、近くにいるのは分かっている。ここ、ここ、などと通話していると、僕を見つけた由奈が人の隙間からぬっと現れた。


 仕事用のスーツではなく、普段着で化粧気のない彼女は田舎の女子高生みたいだった。


「その格好で町中で出会ったら、誰だか気づかないぜ」

「うるさいよ。はいこれ」


 と彼女は手製のプラカードをくれた。A3ほどの大きさのボードに、ワクチン反対、と大きく書かれ、その周りに可愛いのかおどろおどろしいのか判然としない注射を打たれてダウンしているアニマルたちの絵が描かれている。彼女の手作りらしい。


 周りを見ると、コロナは詐欺、マスク・ワクチン不要、ワクチンパスポートは人権侵害、子ども達にワクチンを打たせない、などなど、思い思いのプラカードや横断幕が目に付いた。


 手慣れた人たちがいて、太鼓や鐘でリズムを取りながら、拡声器でシュプレヒコールを唱える。僕も由奈も、はんたーい! と叫びながら歩く。警官隊に護衛されながら政府の政策に反対を唱えるデモをするというのは、不思議な気分だった。新宿を一時間くらい練り歩き、線路の向こう側の中央公園にたどり着く。警官隊監視の中、特設会場が設置されていて、リレー演説が行われている。


 おーい高橋さんもお願いします、と由奈は活動家らしきおじさんに呼ばれる。


 ステージの方に向かう由奈に付いていく。由奈はなんのためらいもなくステージに上がる。顔見知りが多いようで、由奈の姿を認めると、マイクを持っていたものも話をまとめて由奈にマイクを渡す。背筋を伸ばしてステージで笑顔を手を振る彼女は何となく売り出し中のアイドルみたいで、思わずスマホを出して動画モードで撮影を始めた。


「こんにちは、どうも」と照れ笑いを浮かべながら、慣れた仕草で由奈は話し始めた。「もうわたしの話なんか何回も聞いてるって人も多いかもしれないけど、初めての方もいるかも知れないから、また話します。わたしは双子なの。お姉ちゃんは玲奈。双子だからわたしと同じ背格好で、同じ顔してて、でも、わたしよりも全然可愛い。性格がすっごく良くて、優しくて、思いやりがあって、みんなから好かれて。だから、わたしが猫被れば、双子アイドルだって夢じゃない。なんてね。でも、わたしは十二歳までのお姉ちゃんしかしらない。玲奈は十二歳で死んだ。インフルエンザの予防ワクチン、一緒に受けた。でも、玲奈は死んじゃった。あんなもん、受けるもんじゃないね。罹ったって治せばいいだけでしょ? わたしはワクチンが嫌い。お姉ちゃんを奪ったワクチンが憎い。で、コロナワクチン。ほとんどの人は罹らないし、罹っても軽症。予防の意味なんかない。しかも、インフルエンザワクチンの百倍死ぬワクチンだよ。死んだ人がたくさんいる。副反応で、後遺症で苦しんでいる人がたくさんいる。打つ必要なんかない。それを、パスポートだなんだのって、強制するのは間違えてる。ここにいる人たちはみんな知ってる。そして、この瞬間でも気づき始めている人たちがいる。わたしたちは、気づき始めた人たちと一緒に、この狂った世界を元に戻す必要がある。コロナは風邪だけど、ワクチンは災害、人災の、大災害だよ。わたしたちは負けない。一緒に頑張ろう!」


 特設ステージの、音の濁ったトラメガで、何人が聞いているか分からないけれど、僕は彼女の訴えに聞き入った。彼女のワクチン拒否に、そんな背景があることを初めて知った。


「おつかれ。すごいね。感動した」


 戻ってきた由奈をねぎらう。


 壇上では次のスピーカーがモヂルナ製ワクチンを接種した若年層が次々と心筋炎で倒れている、と熱弁を振るう。


「また、適当なこと言って」

「いや、本当。動画も撮ったよ。観る?」

「やだ。消して。それより、裕二も喋れば?」

「僕はあんな上手く話せないし、それに、僕の未来の話なんか誰も信じないだろ」

「そんなことない。わたしは信じてるよ」


 突如、ステージではなく、後方の群衆からどよめきが上がった。大きな地震が起きる直前のような、緊張感が広がり、急に辺りが静まる。


 次の瞬間、怒声が上がり、その怒声は波のように群衆をのみ込んだ。後方で、警官隊ともみ合いになっている。


 怒声はさらに高まる。群衆の移動が始まり、僕たちも押されるようにして警官隊の方へ近づく。公園が怒りに包まれていた。周りの空気が震えるほど、人々の声が鳴り渡り、地面を踏む無数の足が大地を呻らす。砂埃が上がり、視界が悪くなる。


 人間の濁流に呑み込まれないように、僕は由奈の腕を掴んだ。由奈も僕の腕にしがみつく。ちょっと気を抜いたら、僕たちは別々の所へ流されてしまいそうだった。何かが飛んで来て、近くで人々が倒れた。びゅん、と不穏な響きとともに、何かが飛んでくる。


 僕たちは慌てて身をかがめる。


 煙が上がった。煙が、次々と群衆の中から上がる。むせ返る、目が痛い、目の奥からの刺激、目玉が飛び出してしまいそう、痺れ、……催涙弾が撃ち込まれた。


 僕たちは半ばパニック状態で、デタラメに駆け回る人々にぶつかりながら、後方へ逃げる。由奈が激しく転倒した。が、ゆっくり起こしている余裕などなく、力任せに握った腕を引っ張って立たせる。そして駆ける。


 がむしゃらに走った。周りのみんなも走っている。息が上がってくる。何百メートル走っただろうか。


 電柱をに目をやると、渋谷区、と書かれていた。


 振り返って、もう恐怖が追いかけてこないことを確認すると、なんだか笑いが漏れてきた。僕たちと逃げていた他の人たちとも目が合って、一緒に笑ってしまった。まだ、目と喉が痛いにもかかわらず。原因の分からない涙が溢れる。


「大丈夫か?」


 由奈は右膝を擦りむいて血を流していた。


「大丈夫。こんな怪我、中学生以来かも」


 由奈は持っていたペットボトルの水を傷口にかけ、汚れを取り除く。染みるのだろう、顔を顰めていた。その水で僕たちは目も洗った。


 休むのもつかの間、後ろの方で誰かが叫んでいる。


 逃げろ! 逮捕されるっ! 逃げろ! 全員逮捕する気だ! 早くっ! 逃げろっ!


 僕たちデモ参加者は、渋谷の住宅街を、なるべく固まらないように、別々の方向へ分かれていく。


 僕と由奈も、十五分ほど歩いたら、もう二人だけになっていて、デモの面影はなくなっていた。気がつくと、由奈が作ってくれたプラカードも、どこかでなくしていた。


 大通りに出たところで、ちょうど流していたタクシーを拾った。


 運転手に行き先を聞かれたので、


「由奈、南千住でよかったっけ?」


「……あ、裕二んち、寄ったらダメかな」


「別にいいけど」


 僕は運転手に湯島駅と告げた。


「なんかさ、さっきまでテンション上がってて、全然平気だったんだけど、みんないなくなって、二人だけになって、遠ざかって、タクシーに座ったらさ、急に怖くなってきちゃった」

「うん。これ洒落じゃない」


 自分たちが歴史の一コマに絡んでいる感覚に、僕も足がすくんでいた。


 車窓から眺める東京は、デモがあったことなど嘘のように穏やかで、外堀跡と神田川沿いに走る景色は、休日の平和な東京以外のなにものでもなかった。


 どうせ弟は傷薬も絆創膏も持っていないだろう。持っていたとしても、どこにしまってあるか見当もつかない。頭の片隅に居座っている弟の記憶はそこまで親切ではない。僕はタクシーを降りると、由奈に鍵を渡して、近所のドラッグストアで買って帰った。


「ごめん、傷薬まで買ってもらっちゃって」

「いいよ。どうせ使うもんだし」


 由奈は傷口に泡を吹きかける。この泡が効くんだよね、などと呟いていた。スカートに傷薬がつかないように、太ももまでたくし上げていた。あらわになった素足をじろじろと見るものではない。


 僕はさっきのデモがニュースになっていなかネットを探す。速報という形で、警官隊とデモ隊が衝突。催涙弾を使用。双方に負傷者。と出ている。さすがに無視できるレベルではない。SNSでも取り上げられていた。


 デモの映像を見ると、あのときの音、振動、空気の匂い、熱、そういうものが次々と呼び起こされる。いままで、いろいろな国で起きていたデモや暴動を見ても、全く感じることがなかったが、その場に自分がいたという記憶が、映像から感覚を呼び覚ましていた。


「ありがと。たすかったよ」


 治療を終えた由奈から、傷薬と絆創膏の箱を渡される。


 机の上に置いてあるレターケースにしまおうと、引き出しをあけると、そこに全く同じ傷薬が入っていた。


「あれ、あった」


 ふふふ、と由奈が笑っていた。


 引き出しのなかの傷薬を振ってみると、中身もほぼ満タン。


「これ、やるよ」

「大丈夫。うちにもあるから」


 弟の引き出しは、傷薬が二つになってしまった。


 由奈は僕が出しっ放しにしていた習字道具を指し、


「習字の練習?」


 習字の練習は重言ではないだろうか、などと考えつつ、


「そう」

「この前来たときとなんか違うと思った。墨の香り?」


 膠の腐臭を紛らわすため、墨には龍脳などの香料が練り込まれている。僕は由奈に墨を渡す。由奈は摘まんで鼻に持っていき匂いを嗅いで、そうそうこの匂い、落ち着くよね、などと呟いている。


 やらない人からしてみると、そうなのかも知れない。僕はこの匂いになれてしまっていて、気にしたことがなかった。


「なんか書いてみてよ」


 突然注文される。なんか書けといわれても……。僕は篆書で、道、と書いてみた。


「なんて書いてあるの?」

「道、だよ」

「読めんよ、普通に」


 由奈は僕から筆を取り上げると、次の半紙にすらすらと動物の絵を描いた。注射を打たれていない動物は溌剌としていた。


「上手いじゃん」

「わたし美術部だから」

「意外だな」


 と僕が呟くと、由奈も意外そうに僕を見返す。


「知ってるでしょ? 紙面のイラスト、わたしが描いてるの。まさか、それも忘れちゃった」


 僕は戸惑う。由奈から視線を外して、スマホをいじくりながら、


「いや、そうだった。忘れてないよ。……ほら、さっきのデモ、早速動画上がってるぜ」


 由奈も自分のスマホを使って検索を始めた。


 次々と他の動画も上がってくる。最前線では警官隊に袋だたきにあっているものもいた。デモ隊も負けていない。石を投げる者、つかみかかる者、しかし、警官隊の戦力の前に総崩れだ。


「わたしの怪我なんかかすり傷」


 スマホを握る由奈の手が震えていた。


 僕たちはあの場所にいたから現実感があるけれど、いなかった人たちが見たら、これ日本? と首をかしげるだろう。警官隊に制圧される絵は、オーストラリアやイタリアの反グリーンパス暴動と同じだった。ちょっと前の香港の騒乱と同じだった。


 八時過ぎに僕たちは飯を食いに出た。一昨日と違って、ファミレスも開いていたが、緊急事態宣言が開けた街は歪んで見えた。灰色に見えた。緊急事態の方が僕たちにとっては自然で、緊急事態が終わるということは、新しいなにかが始まるということ。


 一昨日と同じ店に入って、同じようなものを飲み食いした。明日、仕事がないからと由奈は三杯目も豪快に飲み干した。


「裕二、喋んなくてよかったよ。ぜったい公安にマークされた。もう会社もクビかも」


 ハハハ、と酒の勢いで彼女は笑っていた。


「この前、改札での別れ際でさ、由奈、僕の未来の話、信じるって言ってたじゃん。ほんとに信じてるの?」

「うん。信じてるよ」

「どうして?」

「だってアンタ、裕二じゃないでしょ?」


 だってアンタ、裕二じゃないでしょ? 頭の中にその台詞は鳴り響き、その振動が僕を動揺させた。 いつかは誰かにバレることは覚悟していたが、唐突に言われてしまった。


「なんでわかった?」

「は? バカ? 冗談に決まってんじゃん」


 僕も冗談めかして笑って見せた。三杯目の生を飲み干して、お変わりを頼む。バレてないのはよかったが、信じられていないっていうのも、自分が認められていないようで複雑な心境だった。


「アンタはどこから見ても裕二。でも……」と由奈は眉間を寄せて、「裕二は字が下手だった。社内イベントで、ほら、式次第みたいの書いて壁に貼ったでしょ。アンタ子どもの頃習字習ってたとかで、書かされてたけど、笑えるくらい下手だったじゃん」


 裕二は僕と一緒に習字教室に通っていた。でも、裕二はすぐにやめてしまって、僕だけ大学に入るまで続けていた。


「あれは、わざと下手に書いた」

「ふーん。そうは見えなかったけど。アンタが最近変なことは確か。仕事も忘れちゃう。ワクチンも急に嫌いになって、前はさ、わたし、なんか避けられてたような感じだったけど、今はそんな気がしないし。デモなんか絶対に来ないと思ってたけどアンタは来た。お酒だって、そんなに好きじゃなかったよ、つきあいでは飲んでたけど」


 そう言えば、裕二はいつも控えめで、僕が二杯飲むと一杯飲む、みたいな感じだった。ほんとは酒、好きなんだよ。と運ばれてきた四杯目も半分くらい一気に飲む。


「どっちだよ。僕は裕二か? それとも裕二じゃないのか?」

「アンタは裕二だよ。それは間違いない。ただ、コロナに罹った後性格が変わったのも間違いないと思う」


 人間の中身が入れ替わりました、などという話、信じろという方が無理なのかも知れない。


「まぁ、この際、僕が誰であるかはひとまず置いといて、信じてもらいたいのは、僕が未来で見てきたこと。ワクチンパスポートは実用化され、来年には接種が義務化される。毎年二発ずつ打たれて、五年後にはみんな死ぬ体になってしまってる。だから、僕たちはこの災害を止めなければならない」


「昔のアンタは、ちょっと頼りない感じで、優柔不断で、世間の空気に流されまくる感じで、でも、すっごく優しいとことか、同期だったし、わたしの相談や悩みもよく聞いてくれたし、それで、ちょっと好きだった。付き合えたらいいかなぁ、なんて思ってた。でも、今のアンタにはそんな風には少しも感じない。アンタと恋愛しようなんて思えない」


「嫌われた、かな?」

「違うよ。今、アンタとわたしは、同士だ」


 この日も由奈は普通に帰っていった。飲み過ぎた酒で、足元がちょっとおぼつかなかったが。月曜からの仕事の段取りはまかせて、と改札の向こうで手を振っていた。


 部屋に戻って、ネットを開くと、YAHOOのトップに今日のデモが載っていた。これほど大きく取り上げられたら、過去の僕だって気がつかないはずがない。ひょっとしたら、僕が過去に来たことによって、歴史が変わったのかも知れない。


 SNSでもデモ、暴動は大きく取り上げられていて、賛否は分かれていた。もう六割がワクチンを打っていて、ワクチン非接種組はどんどん少数に。でも、接種した人でさえ、ワクチンパスポートはおかしいと声を上げてくれている。


 二回打ったが三回打つのは嫌だという人もいる。話が違うと言う人も。ワクチンの効き目が科学的に揺らいできている。というより、科学を騙った目眩ましにもだんだん目が慣れてきて、真実の輪郭が見え始めてきた。面白いコメントがあった。曰く、数字は嘘をつかないが、嘘つきは数字を使う。三回目、四回目を阻止しなくては。

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