有楽町から湯島まで、ちょっと距離はあったが、歩いて帰ることにした。銀座通りまで出て、日本橋、神田、秋葉原を歩く。昼間の東京は緊急事態宣言中にも関わらず人で溢れていた。2031年は緊急事態でもなんでもないが、東京は閑散としてしまっている。人が大勢いるということは、それだけで活気と賑わいだ。


 食堂は夜の8時で閉まるが、昼間は普通に開いている。餃子とビールが美味い店を覗くと、客のテーブルの上には、金色のジョッキが置いてあった。


 もうすぐ総選挙だ。秋葉原では野党が演説していた。ワクチンパスポートの反対を訴えているようだったので、僕は近づいてその話を聞いてみた。ロータリーの真ん中に停めた党車の屋根に数人が上がっていた。党首かどうだかは分からないけれど、それなりに貫禄のあるネイビーの背広で身を固めたおじさんがマイクを握りしめて、おそらくマスクの内側に口角泡を飛ばして演説していた。


「ワクチンパスポートで国民を差別することは明らかな憲法違反。すべて国民は、法の下に平等! 政治的、経済的又は社会的関係において、差別されないんです! パスポートなどを作って、打った人は割引、とか、GoToが使えるとか、まさに憲法違反じゃないですか。ワクチン接種のインセンティブ? 飴と鞭、ふざけるんじゃないと言いたい。国民は政府の飴と鞭によって行動を決められてしまう存在なのか、コントロールされてしまう存在なのか、いつから国民はサーカスの動物になったんですか。いつから政府は国民に芸をさせる調教師になったんですか。どうしてもワクチンパスポートをやりたいというなら、ちゃんと国会で法制化して義務化してからやらなければ、国民主権の法治国家は終わりです!」


 実にごもっともなことを演説されているが、法制化されて義務化された未来を知っている僕にとって、恐怖でしかなかった。


 演説はまだまだ続くようだったが、僕は線路沿いに北上。2k540を通って御徒町へ出る。御徒町はついこの前、未来での話だが来たばかりだった。理恵に結婚十周年のダイアモンドのトップが付いたネックレスを買った。その店は、十年後と佇まいを同じくして、目の前に現れた。結婚十周年の九日前に、理恵は死んでしまった。その首にネックレスを飾った。生きているうちに渡すことが出来なかった。死ぬ日は分かってたんだから、死ぬ前に渡して上げるべきだった。だけど、僕は理恵が死ぬことを認めたくなくて、渡すことが出来なかった。


 十年後の物と全く同じ物はなかったが、似ている物を選んで買った。日曜日には理恵も来ると言っていた。結婚祝い、裕二が過去の僕に時計をプレゼントするなら、義理の姉になる理恵にネックレスをプレゼントしてもおかしくはないはずだ。十年後の僕は、ネックレスじゃなくて指輪でもあげればいいわけで。


 アメ横も賑わっていた。十年前はこんなに人がいた。まだ、日常の生活があった。これほどの人間が生活していたら、地球に負担がかかるのは確かだろう。だからって、人を減らすというのは短絡的すぎやしないだろうか。


 レミングが集団自殺する鼠だっていうのは嘘で、増えすぎた個体が食料を求めて川に飛び込み溺れる、というのが真相らしい。人間もそうなのだろうか。増えすぎた個体が生命を求めてワクチンを打ってその数を減らす。事情を知らない宇宙人が見たら、地球人は集団接種会場で注射を打って集団自殺をしているようにしか見えないだろう。


 サンドイッチだけでちょっと小腹が空いた僕は、肉を焼く香りに誘われて屋台の椅子に座った。中国人か台湾人か、若い女の子が注文を取りに来る。豚耳やら、饅頭やらを適当に注文した。テーブルの上にはジョッキ生三百円と書かれた紙がラミネートされて置いてあった。


「お酒、飲めるんですか?」

「はい。大丈夫よ」

「じゃ、これも」


 緊急事態の要請に随わない店があるというのは聞いていたが、思ったよりも堂々としていた。よく見れば、正面に座った韓国語で話している人たちも、手にジョッキを持っていた。運ばれてきたビールを飲む。ちゃんとアルコールが入っている。陽が高いうちから飲む酒は、グッと脳みそを揺らす。もう一杯おかわりをして、僕は家に帰った。


 朝目が覚めると、昨日の続きだった。ただ寝ただけでは未来には戻れない。十年前のこの生活が、今の僕の現実だと認める必要がありそうだ。

 僕の仕事は来週の月曜日まで入れていないと部長は言っていた。なので、今日木曜日と明日金曜日、有休を使い土曜日曜と今週いっぱいの休みをもらうことにした。


 行きたい場所があった。


 電車を数本乗り継いで、二時間弱でついた。改札を抜けると、まるであの日とおなじ秋の陽気が体を包んだ。十年後の僕はこの道を歩き、弟の墓参りを済ませ、その日に服毒自殺をする。しかし、死なないだけでなく、十年前の弟の体に乗り移った。現実は限りなくリアルであるのに、まだこのリアルを信じ切れていない。だから、寺の山の墓に足を向けた。


 手ぶらで行くのも不自然なので、線香と仏花を携える。お盆も過ぎ、平日ということで寺は空いていた。手頃な桶を借りて水を汲む。手に飛び跳ねた水が冷たい。紛れもなく生きている感覚。


 山を登る。内田家の墓のそばには大木が一本あり、墓石がちょうど木陰になっている。


 墓石の裏側に回る。十年後の僕が撫でた内田裕二の名前は、そこに刻まれていなかった。やはり、裕二は死んでいない。この体は裕二のものだ。では、裕二の心はどこへ行ってしまったのだろう。


「よくお参りくださいました」


 背中から声をかけられた。振り返ると、義章ぎしょうさんがお墓に手を合わせてくれていた。


「義章さん」


 懐かしくて、僕はその名を口にした。僕と同じ年で、後数年で亡くなる。あの時はまだワクチンの副反応が明確になっておらず、ただの突然死で片付けられてしまった。


「なにかあったのですか?」


 義章さんはごく自然に尋ねてきた。年に一度、墓参りをするかしないかの内田兄弟が、お盆でもお彼岸でもないときに来るのは、きっとなにかあった、そう考えてのことだろう。


「ちょっと、いろいろありすぎて」


 僕は冗談めかして言ったが、修行を重ねた義章さんにはお見通しだったのかも知れない。


「わたしで力になれるか分かりませんが、お役に立てることがあれば何なりと」

「義章さん、ワクチン、絶対に打たないでください」


 思わず口を注いで出た。

 義章さんは困ったように視線を外し、


「それは難しいかも知れませんね。このご時世」

「でも、打たないでください。副反応とか、あとコロナの罹患率とか、死亡率とか、調べてください。全く必要のないものです」

「裕二さんがそこまで仰るということは、なにか理由がおありなのでしょう。しかし、わたしが接種することで、周りの人にうつさないで護ることが出来るなら、リスクがあってもわたしは打とうと考えています」


 駄目だ。こういう利他的な人からやられていく。連中は善人の利他心を利用して打たせ、その利他心を宣伝して同調圧力を広めていく。


 あなたが打ったところで、周りの人たちの安全なんて護れない。それどころか、みんなが打つことで、打たなければならない風潮が出来上がり、みんなが犠牲者となり倒れていく。昔の戦争と同じだ。そう伝えたいのに、言葉が出てこない。この思いをそのまま言葉にしても、伝わる自信がない。


 過去に戻った僕が、義章さんやみんなを救わなければならない。義章さんのまっすぐな瞳を見て、その決意がわき上がってきた。結局僕が言えたのは、


「僕は打ちません。みんなを護るために」

「あなたの意思はもちろん尊重します。御仏のご加護を」


 神や仏、そんなものがいるならば、七十億の人間が死ぬ、ワクチン被害などは起こらなかったはずだ。しかし、神や仏がいるからこそ、僕はいま十年前の弟の体に乗り移っているのかも知れない。神や仏に意志があるならば、僕はやるべきそのことをやらなければならない。


「今日はこれで帰ります。住職にもよろしくお伝えください」


 僕はそう言って山を下りた。


 アパートに戻った頃は西日が差し始めていた。


 この四連休に裕二がしていた仕事を覚えるべく、彼のPCを開いて、仕事に関係がありそうな資料を片っ端から開いていく。


 息抜きにYAHOOニュースなどを見ると、ワクチンに関する喧伝が凄まじい。ただ、この時期ヤフコメなどではワクチンに対して否定的なコメントが大半を占めるようになってきたのも事実だ。しかし、日に日にワクチンの接種率は上がっていく。僕は多くの人を見殺しにしている。いたたまれない。


 十年後の未来から、この時代に戻ってきたのは、なにか意味があるはずだ。的確に動けば、十年後の悲劇をなくせるかもしれない。2026年にワクチン接種法が改正されて、接種が中断されるまで、ブースター接種は行われ続け、多い人では十回。少なくとも、年二回の接種が義務づけられていたので、十回から十二回を接種してしまっている。


 接種回数を減らせば、寿命を延ばせるかも知れない。本当は、接種前に止められればそれが一番いいのだけれども。


 もう十年前に戻れれば……。そんな言葉が自然と漏れてしまう。


 由奈から会社来ないのか、とラインがあったので、今週は休むと伝えた。


 世界を救う方法を模索しながら、弟のファイルを片っ端から叩いて、ミニコミ誌会社の仕事の内容を学んだ。


 暗くなってから、インターフォンが鳴った。


「生きてる? お見舞に来て上げた」


 会社の帰りだろうか。由奈は茶色のトートバックを肩から提げて、コージーコーナーの袋を手にしていた。門前払いするわけにもいかない。幸い、弟の部屋はある程度片付いていた。


「上がるか?」

「うん。差し入れ」

「狭いけど」

「へぇ。意外と片付いてるね」


 その辺、適当に座ってて、と言う前に、由奈はベッドに腰掛けていた。


 由奈のお土産はシュークリームとエクレアだった。お土産のお礼にインスタント珈琲を二杯入れた。彼女と向かい合わせで、ベッドの脇のデスクチェアに座った。


「元気そうで安心した。もともと、コロナは風邪以下だもんね。後遺症とかは大丈夫?」


 僕は曖昧に返事をする。ノートPCを開いて、


「そう。後遺症で、仕事、なにしたらいいか忘れちゃって」

「それ、本気で言ってる?」

「あー、とにかく、なにをしたらいいか分からない。どうしたらいいか教えてくれると助かる」


 由奈は考え込む風に、


「山沖さんが言ってた。裕二このまえパソコンの前でずっと止まってたって。ちょっと異様で声かけられなかったって。仕事以外の記憶は?」

「まぁ、ぼちぼち。覚えてたり? 忘れてたり?」

「アンタ、都合の悪いことだけ忘れちゃうんじゃない?」

「とにかく、月曜から僕がなにをしたらいいか、教えてくれ」

「……タダで?」


 と彼女は値踏みするようにのぞき込む。


「飯、奢ろうか」

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