最初は夢だと思っていたこの生活も、毎日がリアルに過ぎて、次第に僕は弟の体で過ごす十年前の日々を現実であると認めざるを得なくなっていた。


 いずれ僕は未来に戻り、弟はまたこの体に戻ってくるのだろうか。もし、弟がこの体に戻ってきたとき、弟が困らないようにしなくてはいけない。弟の記憶を頼りに、出社することにした。


 弟は都内のミニコミ誌で働いていた。弟の記憶は僕を職場まで案内した。会社は新橋の近くだった。僕は日比谷から十二、三分くらい歩いてその場所まで行った。無意識にある弟の記憶は、僕にそういう道順をたどらせた。普通に行くなら、上野広小路から銀座線に乗った方が早いのでは、と思った。弟の考えていることはよくわからない。健康のためだろうか。ダイエットでもしていたのだろうか。弟の体は健康そのもの。僕もだけど、弟も太ってはいない。


 会社はキツそうに立ち並ぶ雑居ビルの中の一本。その五階が弟の勤める職場だった。内側は綺麗にリフォームされているけれど、ガタガタと嫌な音を立てるエレベーターに揺られ、五階のフロアに降り立った。五階は弟の会社だけが入っているようで、エレベーターホールには扉がひとつしかなかった。


「おはよう! 裕二君、治った? よかったね」


 会社の扉を開けると、四十代ほどの女性に声をかけられた。


「あ、岩下さん。おはようございます。はい。休んだらよくなりました」

「入院するっていうから、みんな心配してたんだよ」


 ご心配おかけしました、と僕は照れ笑いを浮かべてみせる。


 十数人ほどの会社だった。そこにいる人の顔は、僕の意識では初対面だったが、弟の記憶はそれぞれの情報を教えてくれる。さっき声をかけたのは経理の岩下さん。バツイチ。再婚に情熱を傾けている。そんなことまでわき上がってくる。


「裕二、どうだった、苦しくて死にそうだったか?」


 次に声をかけてきたのは三十代ほどの男性。山沖先輩。


「あの、ちょっと熱が出て、その時くらいっすかね。もう大丈夫です」

「ばっかだなぁ、おまえ。あんなもんチャチャって打っちまえばよかったのに」


 先輩はシャブ中の人のように、腕に注射を打つ仕草をして見せる。この人は悪い人ではない。裕二の記憶がそう言っている。


「先輩、ネット調べればたくさん出てますけど、あれ、打たないでください。マジでヤバいみたいです」

「なに言ってんだお前?」と山沖先輩は困ったように笑い、「おれ、もう打っちまったよ」

「じゃ、せめて、これっきりにしてください。マジで」


 山沖先輩は、勘弁してくれよ、と呆れたように手を振って見せ、


「ところで、買えたか?」

「え? なにをですか?」

「何って、おまえ」


 先輩はワイシャツの袖からのぞく腕時計を右手の人差し指と中指で叩いて見せた。三針のシンプルなものだったが、輝きが安物とは違って見えた。弟の机の上に置いてあった腕時計と似ている。おそらく、そのことだろう。


「ああ、大丈夫です。買えました」

「そりゃなにより。おれのお薦めだ。間違いない」

「ありがとうございます」


 去り際に山沖先輩が言ったひと言が胸に突き刺さった。


「絶対、お兄さん喜ぶから」


 机の上にあった時計、あれは自分に買ったものではなく、僕へのプレゼントだった。弟が僕に会おうと言っていたのは、あのプレゼント渡すためだったのかも知れない。


「うそだろ、おい」


 誰にも聞こえないように、しかし、はっきりと声にして、僕は呟いた。弟は、何歳になっても、弟だった。ずっと頼りないままの、幼い弟だった。支払いは常に兄である僕。それは兄の務め。兄は弟のために何でもする。それが当然。と思っていたのに。あいつがぼくにプレゼントなんて。しかも、ちょっと高そうじゃないか。不覚にも涙が溢れそうになった。


 でも、泣いている暇はなさそうだった。眉間に皺を寄せた佐竹部長が手招きをしていた。いい話でないと、顔に書いてある。そもそも、この人は面倒くさい人なのだ。


「おい、裕二。ちょっといいか」


 部長は非常階段の踊り場まで僕を連れて行った。すっかりと秋の風が吹いていて、スーツのジャケットを着ているくらいがちょうどいい。


 部長は定型文を述べる。


「具合はどうだ?」

「もう大丈夫です。すみません。ご迷惑おかけしました」


 僕が思わず謝ってしまうほど、部長の顔には黒々と、迷惑である、と書かれていた。


「今回の件、おまえ、自業自得だからな。ちゃんと職域接種受けとけば、こんなことにならなかった」


 職域接種という、ある意味逃げ場がない強制接種で、この時代の人たちは選択権を奪われて、同調圧力であの注射を打ってしまっていた。だが、部長が言うには、弟は職域接種を受けなかった。なぜだろう。弟は反ワクだったということなのか。


「すみません」

「おまえが罹ったせいで、会社が金出して、みんなPCR検査受けたし、みんなを危険に晒したんだぞ」


 ワクチン接種と感染は関係ない。この当時の情報ですらワクチンはあくまで発症を抑えるだけ、ということになっているはず。ただ、デマを片っ端から潰すなどと息巻いた大臣が、接種をすれば感染そのものを防げる、などというデマをユーチューバーを使って撒き散らし、それを信じる無垢な国民が多かったのも事実だ。


「ワクチン接種は任意だから、おれから打てと言うことは出来ないけど、ここはな、みんなで働いてる。小さな会社だ。人員に余裕があるわけじゃない。おまえだってもう子どもじゃないんだからわかるだろ?」


 ワクチンは感染と全く関係がなかった。むしろ、ワクチンを打てば打つほど感染が広がった。なぜなら、そう設計されていたからだ。つまりワクチンは自分と大事な人を護るどころか、自分と大事な人を破滅に導いていた。


 部長に未来のことを説明してやろうか。いや、もう部長は目がいっていた。ワクチンを信じている人間は目がいっている。ワクチンを希望と信じて疑うことを微塵も知らない目だ。僕は反駁するのをやめた。


 解放されて僕は自席に戻る。PCの電源を入れる。


 幼顔の同期の女子が近づいてきて、


「部長に絞られた?」


 マスクの上から覗く目元が、爛々と輝いている。


「由奈、僕が絞られてるの面白がってんだろ?」

「あはは、バレたか。ま、アンタとわたしは同士だからね。非接種組の」

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