二章 トレボーンの夜
トレボーンの夜
レストラン『アルミード』の夜は遅い。
忙しい休日夜の営業を終え、レジを締め終わって、遅番に入っていたアルバイトの大学生が帰って行くのを見届ける。一人、店内の明かりを消し、戸締りをして店を出た頃には、すでに日付けが変わっていた。
「随分、遅かったのね」
俺は声がした方に視線を向けた。
某大手ブランドのコートに身を包み、店の裏の壁にもたれかかりながらメンソール入りの細長い煙草をふかしながら俺を待っていたのは、
凛は、大きく息を吐くと、手にしていた煙草を携帯灰皿に押し付けて火を消し、長い睫毛とアイラインを濃く描いた切れ長の細い目で、こちらをじっと睨んでいる。
ブリーチのしすぎで枝毛まみれのパサパサになった金色に染めあげた髪を、後ろに束ねてショートポニーにしていた。
「すまない。遅くなった。店が忙しくて」
店が忙しかったのは本当だ。遅くなった理由の一つはそうだった。
呼び出したのは自分なのに、悪い事をしたと思っている。
こんな夜中に凛を呼び出したのには、理由があった。
「いいけど、さっきすれ違った子、店から出てきたからアルバイトでしょ。何かしたの?泣いてたわよ」
凛は抑揚のない声で言った。
だろうな。
遅くなった理由のもう一つは、絵里との話が長くなってしまったからだ。
長い話し合いの末、絵里は泣きながら店を出て行った。
「そうか……なあ寒くないか。どっか入ろうか」
俺も、抑揚のない声で応える。
今日は色々あって疲れていた。
「ええそうね。すっかり冷えちゃった」
凛は三十代の半分を過ぎた辺りの年齢で、独り身だった。
数年雨のある日、迷い猫の様にふらっと面接を受けにきた。
凛は俺の店で少し働いた後、すぐ店を辞めて野良猫の様に他所へ行ってしまった。
が、それ以降も俺たちは会っていた。
「いつもの店に行きましょ」
俺たちは、駅から少し離れた雑居ビルに向かった。
狭い階段を降りると、立て付けの悪い扉がある。
扉には、小さなプラスチックのプレートが据え付けられており、こう書かれていた。
バー、トレボーン。
常連ではないが、話したいことがある時にはよく行く店だ。
味はそこそこだが、必要以上にマスターが話しかけてこない所が気に入っていた。
店内には数人のお客がいたが、その割に店は静かだった。
今日は、物静かな客が多いらしい。
俺と凛はカウンターに隣同士に座り、俺はウィスキーを烏龍茶で割った飲み物を、彼女はジンとライムを混ぜたカクテルを頼んだ。
飲み物が運ばれて来る前に、凛は俺の方に顔を近づけ、囁くように言った。
「で、何かあったの?あの子と」
凛はそう言うと、小皿に盛られて出てきたナッツを無造作に掴んで口に放り込んだ。
「ああ。まあ……な」
俺はぼんやりとしていたせいか、歯切れの悪い応えをしていた。
「どうせまた、告白されたんでしょ。相変わらずね。これで何人目かしら」
「さあ……覚えてはいないな」
「非道い人ね」
凛は呆れたような顔でため息を吐く。
先ほどまで一緒に働いていた遅番のアルバイト、
フリーターの彼女はどんな時間帯でも働いてくれるし、よく笑うし、気立もよく、仕事もそつなくこなしていた。
ゆるふわなウェーブかかかった艶のある長い黒髪に、小柄で目鼻立ちの整った愛らしい顔で、器量も良い。
よく躾けられた小型犬の様にだれにでもすぐ懐くし、人に好かれる性格だ。
店長の俺としては、忠犬のようによく働いてくれる絵里がとても助かっていたので、重宝して、シフトを多く入れていた。
遅番で入っていた学生が何人か辞めて夜に入れるバイトがいなくなった事で、それまで主に昼の営業に入っていた絵里を夜のシフトに入れる事が多くなった。
夜の営業が終わってからは人件費を削減するために、俺とアルバイトの2人だけのシフトになる事が多い。
俺と絵里は2人でいる時間が長くなった。
ある日、営業が終わって、片付けを終えたのち、バックヤードで売上の計算をする手を止めて、店のコーヒーで一息入れていた。
その時も、店の中には俺たち二人しかいなかった。
絵里は突然、バックヤードにやってきて、悩みを相談してきた。
絵里は、その時付き合っていた男の事について、あれこれと相談をしてきた。
俺は、店長として真面目に絵里にアドバイスをしていた。
それからも何度か絵里の相談に乗ってあれこれ答えているうちに、いつの間にか彼女とは次第に仲良くなって行った。
店の営業が終わってから二人で遅くまで話し込む事が、徐々に増えていった。
あまりに夜が遅くなった時は、彼女を家まで送り届けたりもしていた。
やがて絵里は付き合っていた男と別れた。
その頃には、俺と絵里は気が付いたら、一緒にご飯を食べに行くくらいの間柄になっていた。
俺たちは店長とフリーターのアルバイトという間柄を超えようとしていた。
時間は経って、今日の営業終了後。
いつもの様に二人になった時、絵里は告白した。
「なんで断ったの?」
凛は顔を寄せ、小声で囁くように聞いてきた。
ホワイトムスクの香水が、ふわりと漂う。
「仕方がないだろう。あの子はまだ若い。ただ俺に理想を見ているだけだ」
彼女は、明日からバイトに来ないかもしれない。
そんな予感がした。
そうなったら、明日から開いた穴をどう埋めようか。
考えるだけで気が滅入ってきた。
「呆れた人ね。どうせ勘違いさせる様な事を言ったんでしょう」
凛はそう言って頬を膨らませる。
「そうならない様にしたつもりだったんだがな……」
フリーターの絵里が抜けると、穴を埋めるのは簡単ではない。
最悪、凛にも店に戻ってきてくれと頼む必要がありそうだ。
凛の事だ、大いに渋るだろう。
機嫌が悪くなるから、今はその話をしないでおこう。
バーテンダーの男が、注文した飲み物をカウンターに置いた。
バーテンダーの胸元に付いているネームプレートには、ハルと書かれている。
以前、ナツやアキ、フユもいるのかい?と冗談まじりに聞いてみた事がある。
ハルは、いませんよはははと笑っていた。
「まあ、良いわ。さ、乾杯しましょ」
俺は、ウイスキーの烏龍茶割りを掴んで、持ち上げる。
凛も、ギムレットを手に持って、俺のグラスに重ねた。
グラス同士の触れ合う小さな乾いた音が、店内に木霊する。
凛はグラスの端に口を付けて、舐める様にギムレットを口の中に入れる。
その透明で薄い緑色の液体は、凛のお気に入りだった。
「何に乾杯するんだろうか」
俺は誰にともなく呟いていた。
「そうね。あなたがいつか、地獄に堕ちる記念かしら」
彼女は、悪びれる気配もなく、そう言って、くすっと笑う。
全く、いやな記念日だ。
だが、俺には相応しいのかもしれない。
「地獄に堕ちたら、追いかけて来てくれるかい」
「嫌よ。それに私はせいぜい、煉獄止まりよ。あなたの所までは行けないわ」
「そうか。じゃあせめて、この人生だけでもを楽しまないと勿体ないな」
「悪いひと」
俺たちは、人気のないバーの片隅で乾杯した。
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