第6話 春-6

「おい、急げ」

 数メートル後方の川口に声をかける。

「分かってるって」

 息を切らしながら川口が走ってくる。

 半ば予想していたが、川口は朝に弱かった。私は五時に目を覚まして川口を起こしたが、結局彼が起きたのは五時半だった。川口の家から学校までは歩いて十五分程かかるので、校舎が開く前に着くのはギリギリだった。

 今日、バイクを使えば川口が登校しているのがバレる。彼が二日連続で登校すれば犯人に異常を悟られる危険がある。

 だからこうして大急ぎで走っているのだ。

 ようやく追いついた川口が、

「俺はもうダメだ。先に行っててくれ」

「待てよ。犯人を見たいんだろ」

「犯人より遅くなったら元も子もない。後は頼む」

 汗を滴らせながら、川口は遺言めいた事を言う。

「仕方ないな」

 私はより早く走る為、鞄を川口に渡そうとすると、

「駄目だ。登校してるが、教室にはいないという状況を作りたい」

 息を上らせ途切れ途切れで言った。

「分かったよ。後で来いよ」

 膝に手を当て青い顔を下に向けた川口を置いて、私は走り出した。走りながら時計を確認する。五時四十五分になろうとしていた。全力で走ってもギリギリだ。

 動きにくい制服と学校指定の安っぽい靴が憎くて仕方がなかった。

 

 校門を走り抜け、下駄箱に靴を投げ込む。上履きに変えている暇はない。

 玄関に走り込むと、ちょうど峯岸が鍵を開けているところだった。

「おい、そんなに急いでどうした?」

 目を丸くして峯岸が聞いてくる。

 よかった。なんとか間に合ったようだ。

 私はその場に座り込み、

「どうしても、一番に登校したかったので」

 息を切らしながら答える。

「そ、そうか。まあ偶には運動も良い事だな」

 若干、引き気味の峯岸はそれだけ言うと廊下に姿を消した。

 私は震える足で、階段を上り教室に向かう。

 教室に生徒の姿はない。いつも通りの光景に安心する。川口が来るまで後どれくらいかかるだろうか。やはり喫煙が肺の能力を落とすというのは間違いではないようだ。

 鞄を席の隣に置いて、気がついた。

 私はどこで待ち伏せすればいいのだ。

 現行犯で捕まえるのなら犯行を目撃できる場所でなくてはならない。隣の教室などでは見逃す恐れがある。そのため隠れるなら教室の中でなくてはならない。

 それに時間もあまりない。川口より先に犯人が来てもおかしくはない。川口を待って相談するのは危険だ。

 教室を見渡す。机の下などではすぐに見つかる。教卓の下でも足が見えてしまう。そして自分の席の後ろの掃除用ロッカーが目に入った。ちょうど目の高さに切り込みがある。隠れるならここしかない。

 ロッカーを開ける。バケツやホウキが狭い中に納められているが、入れない事はなさそうだ。

 仕方がない。私は埃臭いロッカーの中に入り、扉を閉めた。

 身動きができないほど窮屈ではあるが、切り込みのお陰で何とか自分の席くらいなら見て取れる。

 今から犯人が分かると思うと鼓動が早まる。

 一体誰が黒原兄弟と手を組み私たちを嵌めようとしたのか。

 さあ、来るがいい。

 ドアが開く音が静寂を破る。そして足音。川口か、朝練で荷物を置きに来た生徒か、それとも犯人か。

 鞄を置く音がし、続いて椅子を引く音。まだ私の席に近づく様子はない。

 ファスナーを引っ張る音、紙が擦れる音がする。教科書を引き出しに入れているのだろうか。

 また椅子を引く音がし、足音が近づく。

 視界に女生徒の制服が入り、私の席を横切って窓に向かった。

 決まりだ。こいつが犯人だ。引っ張られたカーテンと制服のスカートが視界に入る。今、トリックを仕込んでいるに違いない。

 出るなら今だ。勢いよくロッカーから飛び出し、女生徒を睨む。驚いた顔がこちらを向き、目が合って、

「藤木君?」

 掠れた声で森下が訊いてきた。

「君が犯人だったのか」

 森下は私の声に答えず、俯いた。言い訳をする気はないらしい。

 だが、何故森下がこんな事をしたのか。お喋りでクラスの人気者というイメージだったのに。

 唐突に私の後ろで扉が開かれる音がする。振り向くと息を切らし、肩を上げる川口が立っていた。

「てめえが犯人か」

 それだけ言うと呼吸を落ち着かせ、大股で近づいてくる。

 森下は目に涙を溜め、泣きそうになっている。

 川口は森下を素通りしてカーテンを確かめ、

「ちょっと見てみろよ。これがトリックだったみたいだな」

 私もカーテンを手に取り、確かめて、

「ああ」

 カーテンの裏側の折り返しの縫い目が穴になっていて、そこに紙が入っていた。衝撃でちょうどカーテンの横の私の席に紙が落ちるようになっているのだろう。だから窓を開け、風が吹いた時に紙が現れるようになっていたのだ。

「おい」

 川口が森下を睨みつけ、ポケットから飛び出しナイフを出す。

 音と共に刃がスライドし、朝日を鈍く反射させる。

「体育館下ってのは誰もいないから何やっても気づかれないらしいな。例えば手首を切って自殺したりしても」

 怪しい笑みを浮かべ森下の眉間にナイフを突きつける。

 森下は肩を震わせ、涙を溜め込んだ目で私に助けを訴えた。

 私は目を合わせる気にはならなかった。

「ちょっと行こうか。話は途中で聞いてやるよ」

 そう言うと川口は森下の腕を掴み歩き始めた。

 私はなんとも言えない気分だった。ユーコさんの仕業に見せかけ私たちを嵌めようとした森下が憎くないわけではない。ただ普段、私に話しかけてくる彼女の姿を思い出すと同情を覚えずにはいられなかった。

「おい、いつまでも泣いてんじゃねえよ。見つかったらバレるだろうが」

 川口が怒気を込めて、森下を睨みつける。

 不思議な事に教室を出ると森下は大人しくなった。諦めがついたという事だろうか。

「まず、壁に俺たちの名前をいつ、どうやって書いたのか教えてくれるかな?」

 川口は森下から手を離し、脅していると分からないように優しい口調で訊く。

「藤木君があんたと一緒に教室から出て行った日の放課後。血糊で書いた」

 冷静さを装っているが、声の震えまでは隠し切れていない。

「じゃあ、その次の日に隼人に名前を見せるように仕向けたのか?」

「そう。藤木君が体育館下から出て行ったのを確認して文字を消した」

 森下は聞かれてもいないことまで答える。完全に諦め切ったようだ。

「ふーん。じゃあどうやって校舎から出たの?」

「掃除の途中で一階の廊下の窓を開けておいた。そこから逃げた」

「やっぱりな。俺の推理通りだ」

 川口が上機嫌で私を振り向きながら言った。

「そうだな」

 適当な言葉を返す。はっきり言って今は森下の行動に興味はなかった。

 私は川口を止めるべきなのか。ただそれの疑問だけが私を縛り付けている。

 気づけば私たちは体育館下に向かう階段を見下ろしていた。

 ここだけは犯人やトリックが分かってもそんな事と関係ないかのように不気味さを保っていた。

「ほら、行けよ」

 川口が無慈悲に指図する。森下はもう一度私を振り返ったが、私が目を逸らすと諦めたかのように階段に向かって行った。

 例の部室に入り、ドアを閉める。

 今度は感情を隠さず、

「じゃあ、動機を聞いてやるよ。クソ女」

 ナイフを森下に向けたまま川口が低い声で質問する。もはやこれは尋問でなく、拷問だった。

「何故、西中の黒原兄弟と手を組んでいた?」

 森下は答えない。我慢の限界なのか、口を固く横に結んだまま震えている。

「答えろ!」

 苛立ちを隠さずに川口が怒鳴る。今にも泣き出しそうな森下の顔を見て、私は何故かじいさんの言葉を思い出した。

 自分の正しいと思ったこと、やりたいと思ったことをやる。

「おい、こいつ殺っちまうか」

 川口が私に訊いてくる。

 川口が怒る理由は分かる。黒原兄弟に闇討ちされるかも知れなかったのだから、怒るのは当然だ。嵌めるならバレないようにやらなければならなかった。川口に気づかれれば報復が避けられないと言う事は森下にも分かっていた筈だ。バレてしまったのならそれは彼女の落ち度だ。

 だが、私はどうなのだろう。私も川口と同じ立場なのだから、彼と同じように怒るべき筈なのに、なぜか森下に同情までしている。それに同情しているというのに川口を止めようとも思っていない。

 私は傍観しているだけだ。自分も巻き込まれたというのに。川口の方がまだ正常な反応だと言えるだろう。

「沈黙はイエスと取るぜ」

 川口が森下を殺すと宣言する。彼はやるといったらやる男だ。そして私は、

 私は何だ?

 ただなるように身を任せてきただけだ。きっと川口が森下を刺殺しても、捕まらないように行動するだけだろう。

 私はどうしたいんだ?

 川口がナイフを振り上げ、私の顔を一瞬だけ見て、つまらなさそうな顔をした。。

 私は振り上げた川口の手を掴んだ。森下の驚いた視線が突き刺さる。

「やめとけ」

 溜息混じりに声が出る。

 そうだ。これでいい。正しい選択なのかも、そもそも、そんなものが存在するのかも分からない。だがこれは私の選択だ。だからこれでいいんだ。

「はいはい」

 川口が大人しく下がり、ナイフを仕舞う。

「悪いな」

 ふん、と鼻を鳴らし、

「別に」

 川口は森下から離れ、反対側の壁にもたれかかった。もう手を出す気はないという事だろう。

 森下は泣きながら、困惑したように私たちを見ている。

「ごめん。私も川口もここまでする気はなかった」

 森下は堰を切ったように蹲って泣き出した。

 その背中に、

「ただ何でこんな事をしたのか知りたいんだ。教えてくれ」

 森下は涙で濡れた顔を上げ、

「西中に付き合ってる子がいて、その子が、川口と藤木を誘き出せって脅されて」

 震える声で途切れ途切れで言った。

 脅したというのは黒原兄弟の事に違いない。だから簡単に動機を言えなかったのだ。私たちが黒原兄弟に手を出せば、逆上して森下の彼氏が襲われると考えたのだろう。

「あいつらやっぱり腹黒じゃねえか」

 川口が怒って独りごちた。珍しく私も同じ意見だった。

「ごめんなさい」

 森下が泣きながら謝ってくる。

「いいよ。君が悪いわけじゃない。むしろ私たちが君を巻き込んだとも言えるからな」

 彼女も川口と、いや私たちと黒原兄弟の喧嘩の巻き添えを食ったに過ぎない。

 彼女はそれを聞いても泣きながら繰り返していた。

 

 しばらくして森下は落ち着いた。律儀な事に頭を下げて、

「藤木君、川口君ごめんなさい」

「大丈夫だよ。私たちの方こそ脅すような事をして悪かった」

「ううん、どんな理由でも藤木君たちを売ってしまったのは私だから」

 森下は赤くなった目を擦りながら言う。

 そこで私は気になっていた事を思い出した。

「なんで三枚目の紙だけ血糊の色が違ったんだ?」

「それは血糊が切れちゃったから。自分の血を使ったの」

 森下は腕をまくり、絆創膏を見せた。自分の体を傷つけてまで恋人を守ろうとしていたのか。

 そう思うと黒原兄弟に対して強い怒りが湧いてきた。

「それと私が壁の名前を見た後、どうやってこの部屋に入ってきたんだ?」

「え?」

 森下は何の事か分からないと言った風に、

「私は階段の上で隠れて待ってたんだけど」

「え」

 私と川口の声が重なる。森下が嘘を言っているとは思えない。ならばあの女生徒はー。

 その時、耳元で、

「だめだ・・・」

 女の声がした。位置的に森下の声ではない。

「聞こえたのか?」

 答えを聞くまでもない。森下も川口までも驚愕の表情を浮かべている。

 森下が一目散にドアに向かい、逃げ出す。私たちもそれに続き外に逃げ出した。

 

 私たちは沈黙のままに教室に向かった。あの声について議論する気にはならなかった。

 何故ならあの声はあの部屋で発せられたからだ。私たち以外で誰があの部屋にいたかなど考える気にもならない。あれは気にしてはならない声だ。早く忘れた方がいい。

 教室に戻るとすぐに川口が荷物をまとめ、

「じゃあ、俺帰るわ」

「ああ」

 何も不思議ではない。事件が解決した以上、彼は学校に残る理由はない。

「帰っちゃうの?」

「ああ。俺がいるとみんな困りそうだし。あ、そういえばあの腹黒どもどうするよ?」

「今日、やっちまうか」

「そうだな」

 川口が笑顔で答える。そして心配そうな森下に、

「大丈夫だよ。二度と手を出せないくらいにしてやるから」

 そう言うと彼は教室から出て行った。

「大丈夫なの?」

 森下が心配するのは当然だ。私たちが失敗すれば彼女の恋人も危険な目に遭うかも知れない。

「大丈夫さ」

 論理的な説明はできないが、今なら誰にも負ける気はしない。特に黒原兄弟には絶対に勝てるという自信がある。

 困惑している森下を尻目に私は教科書を広げた。

 

「あの腹黒どもめ、高校生まで呼んでやがったとは」

 肩を支えられながら川口が愚痴を零す。

「やっぱり腹黒だったな」

「違いない」

 墓地での喧嘩を終え私たちは帰路に着いている。

「あれだけやれば、えっと誰だっけ?」

「森下か?」

「そうだ。あいつの彼氏も大丈夫だろう」

 私たちは黒原兄弟の呼んだ高校生たちも相手にして、何とか勝利した。彼らは逃げ去り、残った黒原兄弟に土下座させ、住所を聞き出し他の人間を巻き込んだら家に襲撃すると釘を刺しておいた。ここまでやったのだから森下と彼氏は無事に青春を満喫できるだろう。

「全く、損な役だったな」

「ああ。ちょっと休憩しようぜ」

 川口の提案に乗り、近くのベンチに腰掛けた。

「今日、俺が本当に森下を刺すと思ったか?」

 川口は煙草に火をつけながら訊いてくる。

「ああ」

 あの時、私が止めなかったら間違いなく川口は刺していた。だが、その直前につまらなさそうな顔をしたのは、私が止めると期待したからではないだろうか。

「正解だ。俺には善悪というものが理解できないし、森下は殺されても当然だと思っていた。でもお前は違うだろ。だからあの時、止めたんじゃないのか?」

「まあ、そうだな。少なくとも君に森下を殺して欲しくはなかった」

 川口は夜空に向かい煙を吐き、

「だからそういう時は俺を止めてくれ。俺だってまともでいたいからな」

 川口は私から見れば暴走列車だ。そしてこれまで私はその乗客でジェットコースターにでも乗ったように楽しんでいた。

「いいだろう。私が止めてやるよ」

 これからはその運転席でブレーキをかけなくてはならない。過酷ではあるが列車が事故るのを放っては置けない。

「頼むぜ」

 川口が吐き出した煙は夜空に向かって消えて行く。その先にある星々は一生かかっても回り切れないほど途中駅のように思えた。

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蛇なき夜に君を待つ 安永 千夏 @crazy-kawaguchi

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