第4話 春-4
寝不足で重い頭で校門に向かうとバイクに跨ったままの川口が、煙草を吹かして待っていた。
「よお、暑いな」
私に気づき手を上げた。呑気な声に少しの安心感を覚える。
どうやら私にとって、日常の安寧の象徴は彼の呑気な挨拶らしい。
「流石に制服じゃないとまずいだろ」
レザージャケット姿の川口に声をかける。
「持ってきたから大丈夫だ。それに制服でバイク乗ってる方がやばいだろ」
そもそも中学生でバイクに乗ってる方がやばいのだが。
私の困惑も気にせず、川口は煙草を側溝に捨て、
「じゃあ、行くか」
「ああ」
吹き抜けの玄関は相変わらず無人だった。靴を入れ玄関に向かう。扉は既に開かれていた。
朝日が差し込む玄関はいつもなら爽やかで好ましいものだが、今日は悪霊が息を潜める廃墟の入り口のようだった。
教室まで行き、荷物を置く。川口はジャケットの下に制服を着ていた。
「なんか似合わないな」
茶髪のポニーテールに学生服が似合うはずもない。それに川口が制服を着ている事自体、違和感がある。
「そうか?」
自分の姿を確認しながら、
「まあ、文句は言われないだろ」
「そうだな」
確かに川口が学校に来ている事は奇跡に近い。ならば格好くらいは大目に見てもらえるだろう。ただ、そんな奇跡が突然起こっては大騒ぎになるだろうが。
「じゃあ行くか」
川口は軽い調子で言う。行くというのは体育館下に行くという事だ。そしてそれはあの赤い文字と血塗れの女生徒、ユーコさんに対峙するという事を意味する。
正直に言えば行きたくはないが、もし犯人が人間だったなら許すつもりはない。それに二人で行くならまだ恐怖は薄れるかもしれない。
私は頷いた。
暗い階段を見下ろす。下に続く体育館下は朝だというのに相変わらず真っ暗だ。
「そんなに心配するなよ。朝だから幽霊は出ねえって」
朝だからと言って幽霊が出ないとは限らない。現に昨日は夕方だというのに出たのだ。
「さっさと行こう」
川口は頷き、スマホのライトをつけて階段を降り始めた。私もその背中を追う。
体育館下は昨日と変わらず、不気味な静けさを湛えていた。
「こっちだったか?」
右手にライトを向け川口が訊いてくる。
「そうだ」
カビ臭さが鼻につく。またユーコさんが現れてもおかしくない雰囲気だ。
そんな雰囲気をものともしない川口に付いて行く。
あの姿を見ていないから、怖くないのだろう。私も立場が逆だったならこんなに恐怖を感じなくても済んだに違いない。
「ここか」
川口はドアの前を眺めながら言い、私の返事も待たずにドアを開けた。
軋む音と共にドアが開き、埃臭い空気が流れ出る。
小さい窓からの光で部屋の中は昨日よりも明るく見える。壁に目をやり、
「あれ」
昨日見た赤い文字は跡形も無く消えていた。
「なんで」
川口は何も答えず屈んで床をライトで照らしている。
「昨日は確かにここに私たちの名前が書いてあったんだ。見間違うはずがない」
「ああ。流石にそれを見間違うってことはないはずだ」
「じゃあ、誰かが消したってことか?」
「たぶんな。血糊か何かで書いて昨日の内に消したんだろう」
やはり川口が言っていた通り、犯人は私が文字を見た後に消して予め開けていた窓から脱出したのか。
だがもしユーコさんの仕業だったとしたら、幽霊が書いた文字を消す必要があるのだろうか。
「あったぞ」
川口が屈んだまま言った。
「何がだ」
「証拠だよ」
川口の隣に屈んで床を見る。
「これは、血糊か?」
床に小さな赤い液体が点になっている。
「本物の血かも知れんがな。幽霊が文字だけ消して床に血を残すと思うか?これは幽霊に見せかけた人間の仕業だ」
川口ははっきりと言い切って写真を撮った。
「たぶん、残しておいたら事が大きくなると思ったんだろう。だが詰めが甘いなあ」
川口は愉快そうに笑う。既に勝利を確信したようだった。
「でも一体誰が、何の為にこんな事を?」
「それはこれからだ。教室に戻ろう」
川口はこの状況を楽しんでいるように笑顔で言った。
教室に戻るとすぐに、
「なんで荷物だけ置いてあるんだ?」
誰もいない教室だが、いくつかの机の横には荷物が置いてある。確かに初めてこの光景を見れば疑問が浮かぶのは当然だ。
「朝練だよ。部活は禁止されてるが朝練は自主練習って事で許されてるのさ。それで先に荷物を置いてから部活に行っている連中がいるってわけだ」
「なるほどね」
川口はいかにも興味深そうに言った。
彼は探偵にでもなったつもりなのだろうか。だとしたら何かから影響を受けに違いない、と私は彼に推理小説を貸した事があったのを思い出した。きっとその小説の主人公になったつもりなのだろう。
他人から見れば鬱陶しいかも知れないが、私はその安直さを羨ましくすら思っている。
私は彼のように何かになり切る事はできない。心のどこかで冷静な自分が警告してくるからだ。
現実に向き合え、お前にはできるはずがない、と。
だから川口がすぐに何かの影響を受け、本気でそれになりきり楽しんでいるところに水を差す気にはならない。
それに今回は即席探偵が役に立っている。恐怖に捉われた私には発見出来なかった証拠を彼は見つけたのだから。
「そうだ」
「どうした?」
私は昨日見つけた紙をポケットから取り出し、彼に渡す。
「昨日の夜、教科書に挟まっていたのを見つけた。学校でその教科書を開いたのは朝だけだったが、その間に紙を挟める人間はいなかった」
「なるほど、内容は見たのか」
川口は紙を睨みながら訊いてくる。
「いや、ビビっちまったからまだ見てないんだ」
正直に白状しながら紙を覗き込む。
「何だこれ」
そこには血が飛び散った跡があった。今までとは違い文字などの形ではない。ただ無秩序に血を飛び散らせ、それが紙にかかったように見える。
「どういう事だ」
探偵もこれにはお手上げのようだった。
一枚目と壁に書かれた文字には意味があった。だからこそ、その意図を理解できたが、この紙は一体どういう意図で送られたのか理解できない。内容に意味がないのなら、紙自体に意味があるのか。
人の手では出来ない方法で入れられた血飛沫を受けた紙、それが意味するのは、
「存在を伝えているのか」
「何だって?」
「内容がないんだから、紙そのものの存在に意味がある。つまり、私を忘れるなっていうメッセージじゃないのか?」
「お前を見てるぞっていう意味か」
背筋が凍る思いがする。名前を書かれた以上、日常に帰ることなど許さないという無慈悲な冷たい警告。死にたくないのなら、
「さっさと謝りに来いってか」
ユーコさんの許しを得る唯一の手段、すなわち彼女の墓で謝るしかないということだ。
しばらくすると教室に人が増えてきた。いつものように各々が好きな事をやっているが、時折ある異常に目をやるという共通点がある。
異常というのは私の前に座っている川口の存在だ。
お喋りしている女子は川口を見てひそひそと何かを話し、宿題を終わらせようと急いでいる者までも、恐る恐る川口の様子を伺っている。
当の川口はそんな周りからの視線に無関心で、落ち着いた様子で小説を読んでいた。
「ねえ、ちょっと」
隣で困惑している森下に肩を叩かれる。
「あの人、なんで来てるの?」
目線だけで川口を指しながら訊いてくる。
あの人か。川口はクラスで浮いた存在だというのは分かっているが、その名前まで恐れられているようだ。
「さあ、何かあったんじゃない?」
曖昧な返事を返す。出来ればユーコさんの事は伏せておきたい。知られてしまえば幽霊の噂に本気になっている変人の烙印を押されかねないからだ。
「ふうん」
森下は察したように声を上げる。
狂人には狂人の論理がある。それは普通の人間には理解できない。まさに普通の生徒である自分では川口のような狂人を理解できないと分かったのだろう。
突然、川口がこちらを振り返る。皆の動きが一瞬止まり、教室が凍りついた。彼が何をするか皆注目している。
「なんか暑くねえか」
気怠そうな言葉に誰かの安堵や期待外れの溜息が聞こえる。
笑いたくなるのを我慢して、
「窓開けなよ」
「そうだな」
川口は周りの溜息やらひそひそ話を無視して立ち上がり、窓を開けた。
瞬間、突風が入り込み、カーテンが大きくなびいて、私を包み込んだ。視界が白一面のカーテンに覆われる。慌ててカーテンを掴み白の世界から脱出すると、
「馬鹿な」
川口の声が空虚に響く。
「有り得ない」
そうだ。有り得るはずがないというのに、机の上には新しい血塗れの紙が無慈悲にその存在を主張していた。
授業が終わり生徒たちが帰っていく。川口という非常事態に教師たちは驚いていたが、特に何も起こる事はなかった。
普段なら川口も反抗的な態度を見せたかも知れないが、朝以降、彼は元気が無くなっていた。
無理もない。血塗れの紙が私がカーテンに包まれていた間に出現したからだ。カーテンの中にいた私はもちろん、外にいた川口も紙を置いた人物を見ていない。
つまりあの瞬間に紙を置くという事は人間には不可能なのだ。少なくとも生きている人間の手では。
「紙でも調べるか」
川口が振り返る。彼も死の運命を受け入れたのか、落ち込んだ様子だった。
三枚の紙を机の上に並べる。
「ん?」
川口が一番右の今朝出現した紙を見て声を上げた。私も三枚目の紙を見て気がつく。
「これは変色しているのか?」
三枚目の血だけ、他のと比べて黒みがかかっている。という事は、
「三枚目だけが本物の血なのか?」
「さあな。ただ重要なのはこの中で血ではない物が混ざっているという事だ。幽霊の仕業なら血以外の物を使うはずがない。どうやって紙を置いたのかは分からんがこれは間違いなく人間の仕業だ」
川口は目を輝かせて、嬉しそうに言った。探偵としての自信を取り戻したようだ。
「それにこのメッセージは俺たちを急かす為のものだ」
「早く謝りに来いってやつか」
川口は頷く。
もし犯人が人間だとすれば、早く謝りに来いというメッセージは、早くユーコさんの墓に来いと言うことになる。
「犯人は私たちを墓に誘導したいのか」
「そういうことになるな。じゃあお望み通り行ってやろうぜ」
「待てよ。それなら罠ということも有り得る。何の策も無しに行くのは危険だぜ」
「確かに」
川口はすぐに突っ走る男だ。それを止めるのは、私の役目だ。
「じゃあ何か策を出せよ」
椅子に踏ん反り返り足を組んで言う。安楽椅子探偵のつもりか。ならば私は差し詰めワトソンかヘイスティングといったところだろう。だが、私とてそんな役回りに回るつもりはない。
「ユーコさんが南中に通っていたと言う事は少なくともこの町に住んでいたことになる。なら墓は寺の墓地にあるということになる。あそこは山に面しているだろう?それに山からなら墓地を俯瞰できる。つまり私たちは山から墓地を偵察するのが無難という事だ」
どうだ。私の推論は。探偵は君だけじゃないと言うことがわかったかね。もちろん口に出すつもりはないが。
「なるほど。お前も中々やるな。だが墓地に何があるか分からないし、真夜中にユーコさんの墓をどうやって見つけるつもりだ?あそこには結構な数の墓があるぜ」
中々痛いところを突いてくるが、ここで引き下がるつもりはない。
「確かにユーコさんの墓を見つけるのは骨が折れるだろう。それにユーコという名前が本名かも分からないしな。だが、相手が人間なら話は違ってくる。そいつだってユーコさんの墓を見つけることなんて出来やしないだろう。
だからそいつにとって重要なのはユーコさんの墓じゃなくて私たちが墓地に行くということだ。これだけ手の込んだ事をしてきたのは私たちを誘導するためなんだろう?ならばそいつも分かりにくいような事をするはずがない。行けば分かるような何かを残している筈だ。
後、夜中にどうやって偵察するかという話だが君は前に買った暗視スコープの事を忘れたのか?」
はっとした川口に、
「暗視スコープで偵察ってメタルギアみたいだよな?」
止めの一撃を放つ。これで川口が私の案に乗らないはずがない。
案の定、川口は笑みを浮かべて、
「それはいいな。やっぱり突撃よりステルスだ」
と嬉しそうに言った。
スマホを取り出し時間を確認する。午後十一時になろうとしていた。
「親に連絡はしたのか?」
私の部屋の倍はありそうな部屋で、ボタン留めの一人用ソファに腰掛けた川口が煙を吐き出しながら訊いてくる。
「ああ。今日は君の家に泊まるってラインを送った」
「よし。じゃあ後は待つだけだな」
柔らかい光が赤い絨毯を照らす。私は重厚な感触の椅子の中で頷く。既に準備は終わっている。暗視スコープと念のため懐中電灯を用意した。
川口の部屋を抜け出す時に、彼の家族に見つかる可能性があるが、コンビニに行くなど適当な言い訳をすればおそらく墓に向かう事はバレないだろう。
バイクを使えば音で気付かれてしまうので徒歩で墓地まで行くことになっている。墓地までは歩いて三十分くらいなので後は時間を潰すだけだ。
「墓地に何があると思う?」
川口が微かに高揚した声で訊いてくる。
「さあな。全く見当もつかないよ。君はどう思ってる?」
川口は煙を吸いながら考えて、
「意外と誰かがいるかもな」
「何故そう思う?」
「俺たちを誘い出そうとしてる奴の動機を考えてたんだ。たぶんそいつは俺たちのせいで何か不愉快な思いでもしたんだろう。だから墓地で俺たちを闇討ちする気なんじゃないかって。
まあそんな奴が居たら返り討ちにしてやるがな」
川口は怪しい笑みを浮かべ、言葉を切った。
私たちが知らない間に恨みを買っているという事か。あり得ないとは言い切れない。クラスの中では特にそういった人物はいないと思う。だが人が腹の中で何を考えているかは分からない。
もしかしたら私たちを煙たがっているが、報復を恐れて実力行使できなかった人物がこの状況を作り出したのかも知れない。
「確かな事は墓に行ってみないと分からないな」
川口はまた新しい煙草に火をつけ、
「そうだな。それはそうと、確かな事といえば犯人はあの紙はどうやって机の上に置いたんだ?」
確かにそれはまだ謎のままだ。
犯人を人間と断定した以上、あの紙を超常現象で片付ける事はできない。
「まさか空から降ってきた訳じゃあるまいしな」
なんとなく発した言葉に川口の顔つきが変わる。
「何故空から降ってくるはずがないんだ?」
「え」
紙が空から降ってくるはずがない。もう一度言葉を確認するがなんらおかしい事は言っていない筈だ。
「いや、何故その考えが浮かんだんだ?」
「だって、窓を開けて、カーテンがはためいて紙が現れたからだろ」
私は今朝の事を思い出してー。
「あ」
「おい。二枚目の時はどうだったんだ?」
そうだ。一枚目はどのタイミングで紙が鞄に入れられていたかは分からないが、二枚目は朝だけ開いた教科書に紙が挟まっていた。そしてその時、私は窓を開けて風を入れていたのではないか。
「二枚目もそうだ。窓を開けたタイミングで入ったに違いない」
「三枚目と同じだ。なら窓の周辺に何らかのトリックがあるはずだ。空から紙が降ってくる筈がないからな」
川口は満足げな表情を浮かべ、
「とりあえずは墓地だ。窓については明日だな」
「ああ」
声が上擦る。謎の循環は終わり、私たちは今、確実に前進している。そしてこれからもう一つの謎が暴かれる。その期待で心が踊らない筈がなかった。
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