第3話 春-3

 私は後悔しながら地下に続く階段を見下ろしていた。

 地下といっても体育館は二階にあり、一階の半分が外で吹き抜けになっており、もう半分が体育館下になっているので実際は一階だが、日の当たらない真っ暗な様子は地下としか思えなかった。

 別に確認する必要などはない。ラブレターだか果たし状だろうが、わざわざ相手にする必要はないのだ。それに紙に気づかなかったことにすれば私が非難されることはない。大体どんな用事か知らないがこんなところに呼び出す方が悪いのだ。

 深呼吸をし、心を落ち着かせる。文句を言っても始まらない。たぶんこのまま知らない振りをしてしまえば逆に気になってしまうだろう。だから確認するしかない。

 気になるのだから仕方がない。私はそういう性分なのだ。

 森下に詳しく話を聞いたところ、ユーコさんが目撃された現場は階段を降りて右手の三つ目の部屋で、唯一ドアが付いている部屋だ。その部屋には窓があり、偶然その窓の前を通った生徒が室内に人影があるのを見たらしい。

 ポケットからスマホを取り出し、ライトをつけた。これなら少なとも足元くらいは照らせるだろう。

 決意を固め、古いコンクリートの階段を降り始める。一歩踏み出すごとにカビ臭さが増し、暗闇が濃くなる。

 下まで降りると空気が変わっていることに気づいた。停滞し続けた腐った空気、それに地上よりも温度が下がっている。

 唯一の光源のスマホをかざすが、照らせるのは一メートル程度だ。

 右手に進み壁を照らす。数歩進むと壁が無くなり、洞窟のような暗闇が現れた。これが一つ目の部屋だろう。

 物音一つ聞こえない緊張の中、暗闇にドアが浮かび上がった。

 冷たいドアノブに手をかけ、体重をかける。古いドアが開く音に一瞬心臓が跳ね上がった。

 大きく息を吐き、呼吸を整える。想像など不要だ。理性を働かせろ。

 ドアを開き切って、部屋に入る。念のためドアが勝手に閉まらないか確認するが、開いたドアに閉まる気配はない。

 室内の様子を見る。小さな窓で室内は少し明るいが、辛うじて何かが置かれているのが分かる程度だ。

 スマホをかざして様子を見ると、埃の積もった机や椅子が無造作に放置されているのが見えた。かつては物置として使っていたが、すっかり忘れ去られたのだろう。

 特に変わった様子はないと思い、壁を照らして、

 あの赤い文字と同じように、いやそれ以上に歪で大きく血で書き殴った文字を見た。

 震える手で上から照らすとそこには私の名前と川口の名前が書かれていた。

 心臓が早鐘を打つ。逃げ出そうと思い振り返ると、赤い手が暗闇に浮かび上がった。

 体が固まる。目の前の現象に理解が追いつかない。ライトが手の主を照らし出す。

 そこには手首を真っ赤に染め、黒い髪を垂らした女生徒が立っていた。

 

 階段を駆け上がり、一息つく。心臓が爆発しそうに暴れている。あれが何だったのかは考えるまでもない。確かに見てしまったのだから。血で書かれた私と川口の名前、そしてあの女生徒。

 否定することはできない。

 階段を振り返る。暗闇は相変わらず物音一つ立てずに佇んでいる。まるで何も起こっていないと言わんばかりに、体育館下は息を潜めていた。

 今にもあの女生徒が階段を上ってくるのではないかという妄想に駆られ、私は走って逃げ去った。

 いつもなら部活の準備で賑わっている玄関には誰もいなかった。殆ど上履きに置き換えられた下駄箱から靴を抜き取り、外に出る。

 校門にはバイクに乗った川口が暇そうに煙草を吹かしていた。

 日常に戻ってこれた安堵を憶える。

「よお」

 川口は登っていく煙を眺めながら、

「よお、遅かったな」

 と気怠そうに返事をして、

「今日はみんな部活無いのか?」

「今はテスト週間だからな」

 自分で言って気がつく。見間違いだとは思っていないが、あの女生徒がたまたま残っていた生徒では無いという可能性が高まった。

 やはりあれはユーコさんなのか。虐められ、絶望の中、相手を連れていくために自身の血で名前を書く。彼女は今でもあそこで誰かを呪っているのだろうか。

「おい、大丈夫か?顔真っ青だぞ」

 川口が気付いて声をかけてくる。

「川口、体育館下に」

 川口のレザージャケットを引っ張り、踵を返そうとした時、

「おお、川口」

 峯岸が後ろに立っていた。校門を閉めに来たのだろう。

「先生、久しぶり」

 馴れ馴れしく声をかける。

「お前なあ、来るの遅いぞ」

「すいません」

「たまにでもいいから学校来いよな」

 峯岸は言いながら校門を閉めようとする。

 それは校舎にはもう生徒が残っていない事を意味する。私はその様子を眺めることしかできない。

「じゃあな。気をつけて帰れよ」

 それだけ言うと峯岸は門を閉め、校舎に消えていった。

「行こうぜ」

「ああ」

 消え入りそうな声はエンジン音に掻き消された。

 

 大きな川口邸の車庫にバイクが入り、エンジンが止まると、

「お帰りなさい」

 と優しい声が届いた。

「ただいま」

「お邪魔します」

 私たちはその声の主である福山に答える。

 彼は川口家で雇われている家政婦で、夫婦で働いている。家政婦と言っても、堅苦しい雇用関係ではなく、川口の親戚といった感じだ。

 現に川口家の近くに住む彼らは仕事が無くても家事をしに川口家にいることが多い。

「もう光ちゃん帰ってきてるよ」

「別にどうでもいいって」

 川口はわざとらしく、ぶっきらぼうに言い放つ。私とおじさんは目を合わせて微笑んだ。

 それが本心でないことは明らかだった。

 川口光は川口の姉であり、隣町の高校に通っている。名前の通り明るい性格で皆に好かれる人間だが、川口は異常に彼女の事を気にかけている。

 端から見ても分かるが、彼はシスコンだ。どんな相手にもわがままを通す川口だが、彼女に反抗することは少ない。

 これは推測だが、ポニーテールという髪型は彼女の真似だと思われる。

 広い玄関で靴を脱ぎ、二十畳はありそうなリビングに入ると、

「おかえりー」

 ベッドくらい大きなソファに座り、スプーンをくわえた光が寛いいでいた。ガラスのコーヒーテーブルにはカップのアイスが置かれている。

「ただいま」

 川口は小さな声で恥ずかしそうに言う。

「お邪魔します」

「隼人君、久しぶり」

 三日くらい前にここで同じように会ったが、彼女の場合いちいち突っ込んでいてはキリがない。

「はい」

「そういえば、部活はどうしたんだよ」

 光の隣に座りながら川口が尋ねる。彼女はテニス部で普段ならもっと遅くに帰ってくるはずだ。

「テスト前だから部活は休みだよ」

「高校も同じなんだ」

「まあね、学校によって変わると思うけど。明も学校行けば分かるのに」

 ふん、鼻を鳴らし川口は煙草をくわえてライターを取り出し、

「ちょっとここで吸わないでよ。匂いがつくじゃん」

「一本ぐらいいいだろ」

「駄目」

「・・・」

 煙草をくわえたまま、悔しそうに取り出したライターをポケットに戻した。

 光は溜息をつき、

「明のこと頼むね。仲良いの隼人君くらいだから」

 返答に窮する。私は別に川口の面倒を見れるような立場ではないし、むしろ彼のおかげで助かっている部分もある。

「母親みたいなこと言うなよ。老けるぞ」

「うるさいわね」

 二人のやり取りを見て、

「川口は大丈夫ですよ。意外としっかりしてるから」

 とまるで先生のように答えてしまった。

「意外とってなんだよ」

「そうかなあ」

 二人は口々に感想を漏らす。似ても似つかないこの姉弟を眺めるのは悪くない気がした。

 

 光の提案で私たちはアイスを食べながらゲームを始めた。馬鹿でかいテレビでやるゲームは迫力があり面白い。これなら「メタルギア」をプレイした川口が影響を受けるのもわからなくない。

「あーまた必殺技じゃん」

 色々なキャラクターが登場する格闘ゲームを提案したのは光だったが、さっきから私と川口にコテンパンにされている。

「悪いな」

 容赦ない一撃で光のキャラクターが画面外に吹っ飛ばされる。そして私と川口の一騎打ちになる。今のところ三勝三敗と互角の成績だ。負けるわけにはいかないと気合いを入れた時、

「そういえば体育館下がどうとか言ってなかったか?」

 と川口が呑気な口調で訊いてきた。

 血で書かれた私と川口の名前、そして手を伸ばしてくる女生徒の姿がフラッシュバックする。

 そうだ。ゲームなどしている場合ではー。

「よっしゃー!」

 隣で川口がガッツポーズを決める。テレビを見ると表彰台に乗る川口のキャラクターが映っていた。

「くそ」

 汚い奴だ。まさかこんな手を使ってくるとは。いや警戒しなかった私が馬鹿なのか。確かにこいつは勝つために手段を選ばない奴だった。

「うわー。明、ずるすぎだよ」

「勝った方が正義なのだ」

「うっせえ、ってそんな場合じゃなかった。聞いてくれ」

 そうだ。もしユーコさんの噂が本当なら私たちは命の危機にさらされていることになる。馬鹿らしいとは自分でも思っているが、あの紙や女生徒は現実に存在したというのも事実だ。

 私は二人の困惑気味の視線をよそに話し始めた。

 

「誰かのイタズラじゃねえの」

「でも確かに女生徒を見たぞ。しかもそのあとに学校から出て来たやつはいなかった」

「予め窓の鍵とか開けておけば外に出れるだろ。それともまだ学校に残ってるのかも知れん」

 確かにこれまでに起きた現象は人間の手でも可能だ。

 私が気づかないうちに鞄に紙を入れ、体育館下に誘導して、血糊か何かで書いた文字と自身の姿を見せる。

 単純な話だ。だが、それを簡単に受け入れられないのはユーコさんの噂があるからだ。

「光さんはユーコさんの噂知ってますか?」

 余程私の話が怖かったのか、放心していた光が我に帰って、

「う、うん。聞いたことはあるよ。虐められて自殺したユーコさんの話」

 光は唐突に言葉を切り、不思議そうに首を傾げて、

「あれ?」

「どうしたんですか?」

「名前を書かれたら助かる方法はないんじゃなかったかな。お墓で謝って助かったなんて話あったっけ?」

「まじかよ」

 どちらが正しい話なのかは分からないが、もし光の話が正しいのなら私と川口は確実に死ぬということになる。

 私は頭を抱えた。馬鹿な想像だとはわかっているが、あの姿を見て、誰かの悪戯だったと一蹴することはできなかった。

「ビビりすぎだろ。大体この手の話が少しずつ変わっていくのなんて定番だろ?」

「何故だ?」

「本当は体育館下で自殺した奴なんていないのさ。誰かがそれっぽい噂を作って広めたんだよ。それで噂は口で伝わっていくからオリジナルから段々ズレていくのさ。だから少しくらい話が違っても不思議じゃない」

「伝言ゲームみたいな感じってことね」

 光が納得したように言う。確かに川口の説には説得力がある。噂を思い付いた人間が誰かを怖がらせようと広める。それを聞いたやつがもっと怖くしようと少し改変していく。

 もしかしたらユーコさんの噂も誰かが救済処置を用意しておいた方が面白いと思って勝手に付け加えたのかも知れない。

 だが、それでも疑問は残る。

「仮に誰かの悪戯だったとして、そいつは一体何の為にわざわざこんな面倒な事をやったんだ?」

「さあな。俺たちをビビらせようと思ったんじゃねえの。まあ、半分は失敗だったがな」

 クラスの中で言うまでもなく川口は浮いた存在だ。それをよく思っていない奴がいても不思議ではないが、川口相手に悪戯をやるということが何を意味するか分からない筈がない。

「よし。明日は久々に学校に行くか」

「ええ、どうしたの?突然」

 光が驚いて声を上げる。

「こんな舐めた事されて黙ってる訳にはいかないからな。犯人を見つけてやる」

「ちょっと、やめなさいよ。いや学校に行くのはいいけど」

 光は慌てふためいて、止めるべきか迷っている。

「どうやって見つけるつもりだ?」

「それは現場検証をしてからだ」

 川口は意気揚々とそれっぽい事を言い、

「何時に行く?」

「六時に学校集合にしよう」

「よし。光、ちゃんと起こしてくれよ」

 光は返事の代わりに溜息をつく。

 結局、学校に行かせるという選択肢を取ったようだった。

 もし犯人が存在するのなら、川口が学校に来る事で何か反応があるかもしれない。

 それに幽霊の存在をはっきり否定する彼がいるのなら心強いとも思った。

 

 家に帰り、誰もいない部屋に入る。電気をつけ、イヤホンを耳に差し込み音楽をかけた。

 喧騒と意味の分からない英語に身を浮かべる。既に音量は最大にしてある。川口に半ば無理やり勧められたヘビイメタルだ。

 最初は何を言ってるかも分からないし、クラッシック好きの私からすれば音楽と認めることはできないと思っていたが、今では悪くないと思える。

 こうして部屋の中で聞くことはもはや習慣となっている。おかげで聴力が落ちている気がするがやめるつもりはない。

 床に座りベッドにもたれながら目を瞑る。

 朝に勉強をするからと言って夜にやらない訳ではない。学年一位というのはそう簡単に取れるものではないのだ。ましてやキープするとなるとより大変だ。

 高校受験の為に塾に行き始めた生徒もいる。彼らに対抗する為には空いた時間で効率よく勉強をするしかない。

 だが、心どこかでこの勉強に意味があるのかとも思う。なりたいものもやりたいこともないのに選択肢を増やす為だけに労力を費やすのは果たして正解なのか。

 もっと楽しいことは知っている。小説を読み、クラッシックやヘビイメタルを聞き、川口と遊び、偶に喧嘩をして、じいさんの自慢話を聞く。できればこの生活を続けたいものだ。

 しかしそれでは生きていけない。私たちは大人にならなければならないからだ。やりたい事を諦め、現実に向き合う。それが大人になるという事だ。

 一体何の為に生きているのか。少なくとも自分の為ではない事は確かだ。

 目を開け、大人である為に小さなテーブルに教科書を出す。

 英語の教科書を出して開いた時、小さな紙が舞い床に落ちた。

「え」

 思わず声が出る。嫌な予感がする。

 見てはいけない。あの紙を見るべきではない。

 紙は裏返しに落ちているが、赤い染みが透けて見える。

 川口の言う通り誰かの悪戯に違いない。幽霊がメッセージをノートに挟むはずがない、本物なら呪いだか何だかで問答無用で殺すはずだ。

 理性で言い聞かせても、恐怖は否定できない。

 聞いていたはずのヘビイメタルはいつの間にかクラッシックに変わっている。ピアノの音が不気味さを掻き立てる。

 頭を使え。そうすれば幽霊の仕業ではないことが分かるはずだ。

 誰が何の為に、英語の教科書などに紙を挟んだのだ。

 そこで気がついた。昨日は英語の授業は無かったはずだ。私が英語の教科書を開いたのは朝の勉強の時間だけ。その時、教室には私しかいなかった。

 ならば一体誰が紙を仕込むことなど出来たのだ。

 寒気がする。最早、紙を見る気にはならない。少なくとも一人では。

 私は紙を掴み、ポケットに押し込んだ。

 

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