第2話 春-2

 耳元でシャウトが鳴り響き、私は飛び起きた。イヤホンを抜き取りスマホを止める。

 勉強をしていた間に眠っていたらしい。腕の下の教科書やノートによだれがかかっていないか確かめる。

 よかった。特に汚れてはいない。安堵し時間を確認する。

 朝の五時だった。二年以上続いた習慣のおかげで目覚まし時計なしで起きれるようになっていた。

 腕の痺れが収まってから窓を開けると、冷たい朝の空気が入ってきた。

 私はこんな朝が好きだ。欲を言えばヘヴィイメタルではなく「朝の気分」で目覚めたかったが。

 小さな机に広げた教科書をまとめて部屋を出る。

 テレビの音が聞こえるリビングでは母は欠伸をしながらいつものローカルチャンネルのニュースを眺めていた。

「おはよう」

 パジャマ姿で眠そうに振り返って、

「ああ、おはよう。コーヒーいる?」

「うん」

 私はトースターにパンを入れながら答えた。

「学校はどう?」

 場違いのような質問だが、母は夜遅くまでパートをしているので、ゆっくり話すのはいつも朝なのだ。

「特に変わりないよ」

 母はテーブルでケトルからお湯を注ぎコーヒーを作ってくれた。

「ありがとう」

 私はそれを受け取り、椅子に座る。

 コーヒーの香りとパンの焼けるいい匂いが漂ってくる。

「相変わらず川口君と遊んでるの?」

「まあね」

「あんまりやり過ぎたらダメよ」

「分かってるよ」

 母は私が川口と学校を抜け出している事を知っている。というか私は隠す気もなかった。何故なら母はいちいち咎めたりしないからだ。

 昔から母はやる事をやっていれば文句は言わない。勉強さえしていれば後は好きにしていいというのが母の教育方針だ。

「そういえば隣に新しい人来るらしいよ。昨日、男の人が挨拶にきたわ」

「へえ」

 私たちの隣、三○二号室は人が入ってもすぐに出て行ってしまう。幽霊が出るとか言う噂はないが、このアパートで人が定着しないのは珍しい事だった。

「中学生の子供もいるらしいから南中に来るかもよ」

「そうなんだ。何が好きでこんな場所に引っ越すんだろう」

「あら、私は結構ここ気に入ってるけど」

「なんで?」

「なんでって言われると難しいわね。住み慣れてるからかしら」

「ふうん、私はもっと都会に行きたいけどな」

「まあ、若い頃はそんなもんよ。あなたも大人になれば分かるわ」

 年の問題なのだろうか。だが、ここに留まって年を取ると思うと寒気がする。何も変わらず同じことを繰り返す日々などごめんだ。

 私はバターを塗ったトーストとコーヒーを平らげ、家を出た。

 

 十五分程歩き学校に向かう。時刻は六時前だというのにインナーが汗ばむほど暑い。衣替えは六月からだから後一週間ほどはこの冬服で過ごさなくてはならない。

 溜息が出る。何故衣替えなどと言って制服を揃える必要があるのか。というかそもそも制服など必要なのか。服を選ぶ面倒が減るのはありがたいが、わざわざ動きにくい制服など必要ないだろう。

 文句を言っても仕方がない。何故なら私たちは子供だからだ。大人たちは差別をしないようにと言うが、子供の発言力は弱い。

 私などはまだマシな方だろう。授業を堂々と抜け出しても文句は言われないし、喧嘩をしても怒られもしない。他の生徒よりはかなり自由に生活していると思う。

 しかし、それは川口が一緒だからだ。

 結局、何かを変えたければ彼のように力を持つしかないのかもしれない。

 校門に入り、下駄箱に靴を入れる。ちょうど入り口に担任の峯岸が巨体を現し、鍵を開けた。

「おはよう」

「おはようございます」

「頑張ってるな」

 野太い声が静かな玄関に響く。

「ありがとうございます」

 太い首で頷き、

「川口にも学校に来いって言っといてくれよ」

「はい」

 川口の行動に口出しする者がいなくなって久しいのに、この熱血漢だけは未だに彼の事を気にかけている。それに川口と敵対しているわけでもなく、普通に仲も良い。思えばこの学校で川口と敵対する人間はいない。

 皆、彼をそういう存在だと受け入れている節がある。この学校の生徒がお人好しなのか、彼の個性として受け入れられているのか、それとも自分には関係ない存在だと考え、関わらないようにしているのだろうか。

 まあ私の知ったことではない。川口とつるんでいる私は特別視されている訳ではないし、川口を迫害しようとも彼はそもそも学校に来ないのだから迫害のしようもないのだ。

 教室に入るとムッとした空気に包まれた。私は窓側の一番後ろの席に鞄を置き、窓を開けた。 風が入りカーテンが揺れる。外もそれほど涼しくはないが、多少はマシになった。

 席に座り、鞄から教科書を取り出す。

 私はほとんど毎日川口と遊びまくっているため、こうして朝早くから勉強している。この習慣のおかげで学年一位という成績を保つことができるのだ。

 勉強そのものの価値は理解できないが、やっておいて損はないと考えている。

 方程式や歴史上の人物の名前を覚えて何の役に立つのかという話をよく聞く。

 私も全くの同感だ。社会に出た時、学校で習った知識を活かす機会などほとんどないに違いない。

 だがその知識は試験の役に立つ。いわば勉強というのは私たちの価値を図るために用意された物差しに過ぎないのだ。

 つまり何で役に立たない知識を学ぶ必要があるのかという問いの答はそういう時代だからということになる。

 鞄から取り出した中身を引き出しにしまい、空になった鞄を机の横にかけようとした時、空っぽの鞄の底にくしゃくしゃになった小さな紙があることに気づいた。

 手に取り広げてみると、

「放課後、体育館下で待っています」

 と赤く辿々しい文字があった。

「何だこれ」

 私が書いたものではないし、家で気づかない間に入り込んだという訳でも無さそうだ。昨日、誰かがこっそり入れていたのだろう。

 ラブレターにしては不気味だった。赤い文字はペンで書いたというより指でなぞって書いたように崩れていたし、体育館下というのは今では使われなくなった部室がたくさんあり、カビ臭く昼間でも暗いので、好んで訪れる人間はいない。

 もっとロマンチックで人通りが少ない場所なら他にもあるはずだ。告白するというならそういう場所を選ぶべきではないだろうか。

 しかしこれがラブレターではない可能性もある。それでも意図が分からない。

 果たし状だとしても、私に決闘を挑む意味はないだろう。私の問題行動の中心は川口なのだから川口を呼ぶ内容にすればいい。

 教室のドアが開かれ、生徒が入ってくる。隣の席の森下という女子だ。

「おはよー」

「おはよう」

 私は明るい声を出しながら咄嗟に紙をポケットにしまった。

 

 八時前になると殆どの生徒が顔を揃えて、お喋りをしたり、宿題を終わらせようと急いでペンを動かしたり、狭い机の間を走り回ったりといつもの風景が教室に広がっていた。

 私が教科書を閉じると、さっきまでどこかでお喋りをしていた森下が隣に座り、

「ねえねえ、藤木君って幽霊信じてる?」

 と無邪気な顔で聞いてきた。

「まあ、信じてはいないけど、いてもおかしくはないと思ってるかな」

 私の無難な答えに森下は目を輝かせて、

「昨日、隣のクラスの子が見たんだって」

 森下はお喋りな性格でこうやって私に色々な情報を教えてくれるのだ。そしてオカルト好きでもある。

「見たって何を」

 彼女は待ってました、と言わんばかりに嬉しそうな顔をして、

「ユーコさんだよ」

 ユーコさん。確か昔この学校で自殺をしたと言われる、どこにでもありそうな話だ。

 何かするとユーコさんに呪われるだとかいう話だったか。詳しく憶えていなかったが、そこは頼んでもないのに森下が教えてくれた。

「ユーコさんはね、虐められてて手首を切って自殺したんだよ。それで死ぬ前にその血で虐めてた人たちの名前を書いたんだって。

 そしたら名前を書かれた人はユーコさんに呪われて殺されちゃったんだって」

 今朝の手紙を思い出す。あの赤い文字は指でなぞったような跡だった。

 手首を切り、溢れる血を指につけ文字を書く。痛みと恐怖で震えながら歪な文字をー。

 私は嫌なイメージを振り払った。

 そんな事はあり得ない。大体あの紙に名前は書いてなかったし、幽霊がラブレターや果たし状を書くはずがない。

「それでね、名前を書かれた人が助かるには夜中にユーコさんのお墓で謝らなきゃいけないらしいよ。怖いよね」

「そうか?なんかどこにでもありそうな感じだが」

 森下は不服そうに口を膨らませる。

 私はそんな陳腐な話を鵜呑みにするつもりはなかった。ただ念のため訊いておかなくてはならない。

「隣のクラスの子はどこでユーコさんを見たの?」

 森下は分かり切っているだろうという顔で、

「体育館下だよ」

 と言った。

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