蛇なき夜に君を待つ
安永 千夏
第1話 春-1
蛇なき夜に君を待つ
introduction
久々に彼女を見た。
私の穢れの原因、私の存在意義、私の生まれた理由。
どうやってここに来たのかは分からない。母については分からないことだらけだ。何があっても不思議ではない。
でも何故今になって?
そうか。彼女は私と同じ歳で、私を産んだからか。顔でも見に来たのだろうか。いや、母に限ってそれはない。何か別の目的があってここまで来たはずだ。
誰かを殺すため、とか。
どうせ聞いても答えてはくれないだろうし、話たくもない。
私は耳を塞ぎ、目を閉じた。
「どうしたの?」
「何でもない」
「レーコちゃん?」
その名前で私を呼ぶな。肩を叩かれ、ようやく現実に戻った。
小さな電気に集る蝿、何かが腐った匂い。ボロボロの畳にはゴミが散乱し、そこから滲み出た黒い汁が垂れている。
地獄だ。こんなところで暮らすなら、もういっそ、
「おい、何をぼーっとしてる?」
「ごめんなさい」
並べられた瓶が転がり、酒臭い男が立ち上がる。この音を聞くだけで勝手に涙が出て、情けない懇願を口にすることができる。
「ごめんなさい、お父さん」
「お前のせいだ。全部お前が壊しやがった」
髪を乱雑に掴まれる。せっかく綺麗に纏っていたのに。
そのまま畳に引き倒された。顔に何かが張り付いた気がするが、気にしない。
もう、慣れてしまった。勝手に動く口に任せて、思考の海に浮かぶ。
母がここに来た理由、何かがあったに違いない。きっと、この地獄を変えてくれる何かが。
1.春
三階の窓からは校庭のトラックを走っている生徒たちが見えた。
同じところをぐるぐる走るというのは人生に似ている。sfを読んだ後にミステリーを読み、純文学を経てsfに帰ってくる。
バッハを聞いた後にベートーベンを聞き、モーツァルトを経てバッハに戻ってくる。
最近は漫画やヘビーメタルに手を出し始めたが、ただ途中駅が増えただけに過ぎない。
きっと人生も同じなのだろう。
様々な経験をしても、似たような感情を体験し続けるだけ。人間は限られた感情しか持ち合わせていないのだから当然だ。
私たちは走る距離を増やしながら、ぐるぐる回り続ける。そして最期には体力が尽きて動けなくなってしまうに違いない。
黒板を向いて数式を書いている先生の、真上の時計を見る。
午後三時半だった。そろそろ私はこの退屈な授業から解放される。
最も学校が終わったところで私は本当に解放されるわけではない。
中学三年生。まだ子供だとか、未来ある若者だとか言われる年齢だ。
しかしそのキャッチコピーは不安というものを度外視している。選択肢があるということは間違える可能性があるということだ。それを考えれば夜も眠れないほどの焦燥に駆られる。
私はこのままでいいのだろうか。だからといって夢があるわけでもないし、それが見つかる気配もない。だから努力のしようもない。
一番怖いのはこのまま無気力で何もせずに終わることだった。
お前は何になりたいんだ?これからどこの高校に行くんだ?それとも中卒で就職するのか?
何千回も繰り返した質問の答えは決まっている。
分からない。漠然と広がる選択肢は広大な海のように広がっている。
いつも通り諦めて目を瞑った瞬間、激しくドアを開ける音がした。
学校には全く似合わない黒のレザージャケットを着て、茶髪のポニーテールをぶら下げた男が立っていた。
「よお」
川口が私に向かって手を挙げる。異様な光景も既に見慣れたものになっていた。皆も何もなかったように授業に戻っている。
私もいつも通り教科書を鞄にしまって、
「早退します」
と言い残しドアを閉めた。ドアの向こうから先生の溜息が微かに聞こえた。
外に出るや否や川口は煙草に火をつけて、
「今日はどこに行くよ?」
「ゲーセンでいいんじゃね」
「そうだな。最近じいさんに会ってねえし」
校門を出てすぐの道路には川口のバイクが止まっていた。本当は彼の父のものだが。
「ほらよ」
不釣り合いの大きさのバイクに跨った川口がヘルメットを差し出す。
「どうしたよ、辛気臭い顔して」
川口は手に持ったヘルメットを座席に置いた。
「君は将来の夢とかあるのか?」
「まあな。昨日決めたんだが」
そして気恥ずかしそうにヘルメットをかぶった。
「何になりたいんだ?」
「傭兵だよ」
「本気かよ」
フルフェイスの上からは表情は読み取れない。
「マジだって」
私は困惑しながら座席のヘルメットを被り、後ろに座る。
そして思い出した。
「昨日、何の映画見たんだ?」
「映画じゃないけどな。メタルギアやったんだよ。暗視スコープも注文しちまった」
川口はすぐに影響を受ける人間だったことを。
「まあ、頑張れよ」
川口は小さく「おう」とだけ答えエンジンをかけた。
体に振動が伝わってくる。バイクは唸り声を上げ走り出した。
吹き付ける風が少しずつ心の重みを軽くしていった。
十分ほど国道を走り、脇道に入る。大きなショッピングセンターやリサイクルショップは姿を消し、すぐに寂れた風景が現れた。
この町にはマクドナルドもユニクロもある。だがそれは国道という花道を飾っているだけで、少し奥に入れば、こうした古い家が立ち並ぶ田舎の景色を露呈する。
それに道にいる人間も高齢者ばかりで若者などはほとんど見かけない。現に私たちの通っている中学校も段々と人数が減り、今では全校で二百人ほどしかいない。
この町はハリボテだった。正直にいって私はこの町が嫌いだ。田舎というレッテルを貼られないように都会ぶっている浅はかな町だからだ。地元が好きという連中もいるが、ここで何十年も暮らすと思うとぞっとする。この先どんな人生を歩むことになるかは分からないが、この町で腐って老いぼれになるのだけはごめんだ。
バイクがスピードを落とす。ゲーセンは車一台分しか通れないような細い道に面していた。
隣の空き地に入り、バイクを止める。
「あれ、珍しいな」
いつもバイクを止めている場所に別のバイクが止まっていた。今までにこんなことはなかったし、古いゲーム機が数台しか無いゲーセンにくる物好きがいるとは思えない。
「じいさんの親戚とかじゃねえの」
「なるほど」
川口ヘルメットを脱ぎながら納得したように呟いた。
店に入ると、古い格闘ゲーム機の向こうから話し声が聞こえてきた。
話し声の主を確認しようとゲーム機を回ると、
「うわ、川口」
バツの悪そうな顔をした黒原兄弟がいた。
川口が私を見て、
「誰だっけ?」
間抜けな声で聞いてくる。本当に憶えていないのか。
「去年、君に喧嘩を売ってきた西中の腹黒兄弟だよ。そのあとボコボコにしただろ」
「ああ」
川口は思い出したように大きく頷いた。
「何しにきやがった」
黒原兄弟は狐のようなずる賢い顔を痙攣らせながら言った。
ちなみに黒原兄弟は名前と見た目の通り、腹黒い奴だ。
「もちろん、お前らをぶっ殺しにきたんだよ」
川口は怪しい笑みを浮かべながら堂々と嘘を吐く。
そしてポケットからお気に入りの飛び出しナイフを出し、
「本当に腹の中が黒いのか確かめねえとなあ」
音を立て刃が勢いよく飛び出した。
「お前、それ違法だぞ」
黒原兄が震えながら叫んだ。確かに飛び出しナイフは違法だが、それ以前にナイフを持ち歩いている時点で違法だろう。それに川口を糾弾したところで何になるというのか。
川口が勇気の申告を完全に無視して、黒原兄に飛びかかろうとした時、
「こらー!」
怒鳴り声と共にじいさんが姿を現した。私と川口は驚いてじいさんを見る。視界の端で黒原兄弟が逃げ出して行った。
「わしの店で喧嘩すんな!」
川口を睨みつけ怒鳴る。とても七十歳の声とは思えない。
「あーあ、じいさんのせいで逃げられたじゃないか」
川口は悪びれもせず、入り口を眺めて愚痴を零す。
「うるせえ。馬鹿」
じいさんは本気で怒っているらしい。
「すいません。こいつも本気でやるつもりはなかったんです」
私はすっかり慣れた弁解をする。
「まあ、藤木君が言うなら」
じいさんは真剣な言葉に弱い。そして私の言うことにも何故か弱い。
「とにかく川口、わしの店で喧嘩するのは許さんぞ。殺しなんて起きたら最悪じゃ」
「ごめん、ごめん」
川口はへらへらしながら言った。いつもこうやってじいさんをからかっているのだ。
「まったく」
じいさんは溜息混じりに呟いた。
「せっかくの客を逃しやがって」
「おいおい、俺らだって客だぜ」
川口は煙草をくわえて言った。
「お前らは煙草吸って話してるだけやろうが」
「暇潰しになっていいだろ」
「ふん」
じいさんは鼻を鳴らし、奥に引っ込んだ。
「なんで西中の奴がこんなところに来てたんだ?」
この町には中学校が三つある。西中は私たちの通う南中から車で二、三十分程度離れている。確かにわざわざここまで来るというのはおかしい。屯する場所を探すならもっと近くでいいはずだ。それに学校から抜け出してバイクに乗っているというのが宣戦布告となるのを知らないとは思えない。
川口は腕を組み、煙を上に吐き出しながら、
「そういえば、あいつらバイク持ってたっけ?」
黒原兄弟と喧嘩した時のことを思い出す。
確か川口とコンビニの前で屯している時に喧嘩を売られ、決闘を申し込まれた。約束の場所に行ったら黒原兄弟は何人か仲間を連れてきていた。私はほとんど無傷で乗り切ったが、川口は苦戦していた。それで黒原兄弟っていうより腹黒兄弟だと文句を言っていた。その時、彼らは走って逃げて行ったはずだ。バイクは持っていなかったのではないだろうか。
「まあいいや、あんな奴らのこと考えてると吐き気がするぜ」
川口は本当に気持ち悪そうに吸殻を灰皿に押し付けた。
「同感だ」
「バイク乗ってる中学生なんてお前だけだろうが」
じいさんがカウンターの奥から現れた。手にはお菓子を持っている。いつも私たちが来るとじいさんはお菓子を出してきてくれる。私たちがここに通う理由の一つだ。
「そうでもねえって話をしてたんだがな」
川口はそう言いながらじいさんから煎餅を受け取る。じいさんは川口の言葉をスルーし、
「いくらわしでも中学生の時はもうちょっと真面目やったで」
「南中でしたっけ?」
「そうや。あの頃はまだ北中があってな」
じいさんは言葉を切り、川口に向かって手を差し伸べる。
「ん」
「またかよ。しょうがねえなあ」
川口は顔をしかめながら煙草を差し出した。
「自分で買えよ」
「お前らが来る時しか吸わんのじゃ」
じいさんはうまそうに煙を吸い込み、長々と吐き出した。
「北中と西中は征服したんだが、南中にはとんでもない奴がおってな・・・」
全然真面目じゃないじゃないか。私は無粋な考えを飲み込んで大人しく話を聞くことにした。
「・・・結局わしが最後に勝ったんや」
じいさんの話は高校編までいって終わった。老人の話は面白くないというが、意外にも、じいさんの話はそれほど退屈なものではなかった。
「すげえ。見直したよ」
川口に関しては目を輝かせている。
「大したことないわ。そんなことより川口も藤木君みたいに勉強しんとろくな大人になれんで」
「大丈夫だよ」
いつもなら悪態をついてお茶を濁す川口だが、今日は余裕だった。何故なら、
「俺は傭兵になる」
自信を持って言い切った。じいさんは唖然としてから、真剣な顔付きになり、
「傭兵になるっても簡単じゃないぞ。外国で戦争は起こってるんやから英語喋れんと傭兵にはなれんぞ」
と意外にも真面目に考えて言った。
「確かにそうだな」
川口も納得して頷いている。
じいさんはもっと大人らしく、そんな危険な仕事は止めろだとか、そもそもなれるわけがないとか現実的な事を言うと思ったが。
「藤木君は将来何になるんや?」
じいさんが聞いてくる。それは私も知りたい。再び焦燥が胸に広がる。
だが、川口の突拍子もない夢を真剣に考えてくれるじいさんなら他の大人よりもマシなアドバイスをくれるかもしれない。
「分からないです。なりたい物と何もなくてそれが悩みっていうか」
「まあ普通はそんなもんや。わしだってゲーセンの店長になるとは思ってなかったわ。気づいたらこの町で何十年も経って、ゲーセンなんか作ってた。でも今は悪くないと思ってる。悪ガキが騒いでるのは勘弁してほしいけどな」
じいさんはいつの間に取ったのか、新しい煙草を手にして、
「諦めや」
「諦め?」
「そう、後悔がない人生なんて綺麗事や。そんなことは考えずに、自分のやりたいと思ったこと、正しいと思ったことをやればいい。
わがままでいいんや。間違ったなら後から何とかすればいい」
無責任で安直な生き方だと思ったが、何故かその言葉は鋭く、私の胸に突き刺さった。
バイクが家の前に止まった。既に日は沈んでいるというのに、外はまだ明るかった。思えば暦は夏至に近づいている。
「じゃあな」
川口がバイクに跨ったまま声をかける。私はその背中を見送りながら、
「待ってくれ」
思わず声をかけていた。
「なんだよ」
川口がバイクを止めて近づいてくる。私は古い住宅の前の階段に腰を下ろした。川口も隣に座る。
特に話すことがあるわけではなかった。何故かこのまま帰る気にはならないだけだ。
川口は煙草を取り出し、火をつけた。
「一本くれ」
川口が驚いて私を見る。
「どうしたんだよ」
「なんとなく」
煙草を受け取り、火をつけた。
苦味が口に広がる。
「まずいな」
「初めはそんなもんさ」
川口はすっかり慣れた様子で煙を吐き出しながら言った。
辺りは段々暗くなって行く。十五分程前、ゲーセンを出た時はもっと明るかったはずだ。
いつも気がつけば時間が経っている。いつの間にか空は暗くなり、いつの間にか私たちは三年生になっている。きっとこの先もいつの間にか年をとって、いつの間にか死ぬのだろう。
時間は意識するには遅すぎる。しかし変化は早すぎるのだ。だから気づいた時には手遅れになっている。
「そんなに将来が不安か?」
川口は翳っていく空を眺めながら言った。
「不安だよ。頭がおかしくなりそうなくらいに」
「そうか、でもずっと悩んでてもつまらないぜ」
「じゃあ何で君は悩まずにいられるんだよ」
街頭がつき、頼りない光で辺りを照らす。
「俺たちってたぶん簡単に死ぬんだよ。もしかしたら明日バイクで事故るかもしれないし、誰かに襲われるかもしれないし、隕石が落ちてきて地球滅亡ってのもあるかもしれない。
だから俺は今のうちに人生を楽しみたい。いつ死んでも後悔がないようにな」
相槌や感想など必要ない。これは有無を言わさない彼の宣言だ。
だが、その考えはあまりに私とかけ離れている。私は未来のことばかり考えて、今を見てなどいない。川口からすればおかしな話なのだろう。
「確かに明日地球が滅亡するなら将来の心配なんて無意味だな」
「別に俺の考えが正解だって言うわけじゃないぜ。明日、隕石が落ちてくるとは限らないからな」
川口は立ち上がった。いつの間にか、彼の顔もはっきりと見えないほど暗くなっており、街頭だけが暗闇に浮かび上がっていた。今くらいは、この“いつの間にか”を気にしなくてもいい気がした。
「じゃあな」
「おう」
バイクの爆音とライトと共に川口は去って行った。私はその光が見えなくなるまで彼を見送った。
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