第2話 嗚呼、無残なり巨大猫又が江戸を襲う!

「火事だッ!」

 その夜、江戸は赤黒く混乱していた。

 暗がりのなかで聞こえるのは火消しの怒号と役人たちの絶叫。時折、炎に照られる人々が影絵のように右へ左へ奔走している。

 逃げ惑う人々で道は閉塞する。小口の甁から無理矢理抜けだそうと足掻く砂粒のようだ。悲鳴と嗚咽が八百八町に染み渡った。若者は焦りから軒を伝って屋根を走り、逃げ場の無くなった女子供は身を寄せ合って怯え、年寄りはただ手を合わせて祈る。

 ありえない異常事態に火ノ見櫓ひのみやぐら半鐘はんしょうを鳴らし続けた。


 ──にゃーおうぉ、にゃにゃにゃあぁ


 巨大なバケモノが突如、天下の大江戸に現れたのだ。

 夜と同化する真っ黒な毛に覆われたその畜生は、見事二本に割れた長い尻尾をゆらゆら揺らしていた。

 その大きさたるや、後ろ二本脚で立ち上がると旅籠はたごの屋根から顔を出すほどだ。二階屋の旅館はバケモノのひとパンチで「にゃあ」と簡単に破壊された。砕かれた壁や屋根瓦が雨のように降り注ぐ。逃げ遅れた者たちは下敷きになった。

 幕府も指をくわえて見ていたわけではない。血気盛んな若者を中心に『幕府特別鉄砲隊』を編成し突撃させた。しかし数刻もたず全滅した。

 バケモノは長いヒゲを震わせる丸い頭に、つり上がった目。大きく尖った耳に裂けた口。口内には牙らしきものも見え隠れしていた。

 時折、目を細めながら真っ赤な舌でちろちろと、しなやかな腕をなめ回す。腕の先端には鋭利な五本の鉤爪が恐ろしく伸びていた。

 ときに四本の足で駆け、ときに後ろ足二本だけで人間のように歩いた。


「そのような、馬鹿げた話があるか!」


 江戸城では老中・水野忠邦ただくにを中心に幕府直参じきさん旗本はたもとが集められていた。

 けれど城の月見櫓つきみやぐらから燃える町を見渡しながらも大御所様──かつての将軍・家斉いえなりは報告を信じなかった。そのくらい常識外れな事態なのだ。

 動物学の権威というから林大学頭はやしだいがくのかみなる男も城へ招いてみたが、煙に巻くような話をするばかり。時間だけが空しく過ぎていった。




「お花ちゃんを放せ!」

 麟太郎りんたろうは今一度叫ぶと手にした木剣で手近な黒毛一匹を突いた。

 すると猫は「ぽんッ」と煙に変化し「しししッ」と嫌な嗤い声だけ残して消えたのだ。他の猫も続いて「ぽんッ」「ぽんッ」と煙になる。

 お花に絡みついていた『蜘蛛の巣』も解けて、少女はどさりと尻から畳の上に落ちた。最後の一匹だけが、お花の白いうなじをぺろりぃ、と惜しいように舐めた。そして「しししッ」と同じように嗤うと裂けた二本の尻尾をひるがえし、まるで「ついてこい」と言わんばかりに障子の隙間から外へと飛び出した。

「猫の分際で武士の子を馬鹿にしくさりおってッ!」

 激高する麟太郎の視界には、しかし艶めかしいお花の寝姿があった。気を失った「眠り姫をこのままにはしておけない」と、木剣を納めて『姫』を両腕に抱え上げる。

「う、おもったよりも……うぅぬ、なにをこの程度の重さなどッ!」

 凄まじい轟音と火の粉舞い散る奥座敷を後に猫又の後を追う。

 そこにはッ!

「にゃおぉぉぉん」

 炎に照らされる闇夜の江戸城下。

 火ノ見櫓ひのみやぐらよりも高い位置にある巨大な目玉がぐるんと動いたかと思えば、やんちゃな少年剣士をぎろりと睨みつけた。

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