第十話

 突然の雷雨にみまわれて、桶狭間山の頂に陣を張った義元は、慌てて天幕の内に入り込む。

 小姓が用意した床几しょうぎに座って雨をしのぎ、濡れて剥がれた白塗りを別の小姓に直させていると、使番が元康の到着を報せに来た。


「待たせておけ」

 

 義元は濡れた具足を手拭で拭かせ、崩れた化粧が整うまで、降りしきる雨の中、元康とその親衛部隊を立たせていた。

 程なく義元の側近に天幕の中に呼び入れられ、ずぶ濡れのまま義元の足元で膝をつく。


「何? 織田の出陣は建前で、本懐は善照寺砦に立て籠もるだと?」

 

 義元は元康からの報を受け、床几を蹴って立ち上がる。降り止まない土砂降りの雨粒が天幕を叩きつけていた。


「はい。織田方は清須城を発した後、善照寺砦に留まって、さながら籠城の構えを見せておりまする」

「では、清須城から遥々はるばる出て参ったのは見せかけか? この期に及んで、砦如きに籠城とは」

 

 義元は失笑した。その含み笑いは腹の底からのあざけりになり、次第に高笑いへと変化した。


「まさに袋の鼠よの」

「誠に、ひと太刀たちなりとも交わんとする、気概も既に失われ、万策尽きた織田方は、末期のていにございまする」

「おお。それほどまでに、そなたが言うとは。もやは尾張は手の内に落ちたも同然」

 

 義元は扇を開いて口元を隠し、目元に喜色を湛えている。

 上機嫌でさかずきを手にした義元は、元康にも杯を配らせた。小姓に酒を注がせて、元康と共に高々とはいを掲げて前祝いをする。


「それではそれがし。これにて失礼を仕りまする」

 

 注がれた酒を一息に呑み干し、元康は天幕を去ろうとした。


「元康殿」

 

 背後から義元に呼び止められ、元康はギクリと肩を強張らせた。


ながの戦、大義であった」

「もったいない御言葉に存じまする」

 

 元康は義元に向き直り、腰から二つに折れるように一礼した。離れる頃には、通り雨も止んでいた。


 天幕を出た元康と入れ替わるように遊技が招かれ、中で笛や太鼓を奏し出す。

 丸根と鷲津を攻落した、祝いの宴が催され、うた朗々ろうろうと聞こえていた。


 元康は肩を怒らせながら足早に天幕を離れ、手にしたままのさかずきを、濡れた地面に叩きつけた。

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