第九話

「前衛が敷かれたとはいえ、三河は昨日の早朝から夜通し休みなく歩かされ、大高城に入った後、すぐに うしの刻(午前三時)に城を出て、丸根と戦わされている。人も馬も疲れ果てた労兵どもだ。いかな大将が元康だろうと、こちらは新手あらてだ。叩けるぞ」

 

 緊迫した顔つきの傭兵に、信長は意気揚々と豪語した。

 威風堂々胸を張る信長の笑みを見て、各部隊の大将格も、下士の兵も険しかった眉をゆるめ、ほっと和らいだ息を吐く。


 決して戦は油断はできない。

 かといって、肩に力が入りすぎても下手をする。頭も体も硬くては、刻々と変わる情勢に対応できなくなるからだ。

 だから、信長はあえて大口をたたいてみせた。

 

 と、その時、思いがけなくポツリと雨粒が落ちてきた。


 桶狭間山のいただきに暗雲が低く垂れこめて、急雨むらさめが石粒のように乾いた地面を打ちつける。

 信長は雨に打たれながら、桶狭間の頂きを仰ぎ見た。

 つられるように兵達も、信長と同じ方向に顔を向け、一様に天を見上げている。


「皆には初の大将戦」

 

 信長は不敵な笑みで唇の片側を持ち上げた。そして、おもむろに自らの刀を鞘から抜いて天に掲げ、兵の視線を引きつける。


「皆の者。初陣ういじんを勝利で飾れ!」

 

 腹の底から声を出し、刀を捧げた信長は熱田大明神あつただいみょうじんの如くに猛々しく映え、奇襲兵を魅了した。


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