第十一話

 桶狭間山のすその谷で信長は、雨が止むのを待っていた。

 鬱蒼と下草の繁る雑木林に、深作と肩を並べて身を潜める。


 前に三河が大高から、鳴海へ後詰めしようとした際に、わざと雨の日に襲撃した。おそらく元康は雨だから襲われないとは油断せず、むしろ警戒を強めるに違いない。

  軍事に同じ手は通じない。

 木立の枝越しに、東から西に流れる鈍色にびいろの雨雲を睨んでいると、隣で深作が感慨深げに呟いた。


「この戦。大将は義元ではなく三河の元康だと、お考えになられていらしたのでございまするか」

 

 雨が降り出す直前に、前衛軍への攻撃を、信長は『大将戦』だと言い切った。

 だからこそ三河の兵を執拗に叩き、恐れさせ、結果として元康の軍勢を岡崎から大高まで一昼夜、歩きに歩かせ、疲弊ひへいさせた。


 しかも黒末川は満月の、干潮時かんちょうじでなければ渡れない。


 その為、大高城に到着するやいなや、やむをえず、翌日の真夜中、丑の刻(午前三時頃)には、兵を丸根に向かわせなければならなかった。


 そうして川を渡り、まる半日かけて丸根を落とした元康も兵卒も、二日に渡り、まともに眠っていない事になる。

 深作は、春分から初夏にかけて現れる満月の低低潮日。


 今日という日に総攻撃を仕掛けると、予め信長は思い定めてきたのだと気づかされ、その綿密な算段に舌をまく。


「俺の敵は元康だ。元康さえ仕留めれば、公家かぶれの義元など恐れるに足らない」

「それほどまでに」

「元康だけは侮れぬ。この戦とて、何がどう転ぶかは、天のみぞ知る」

 

 信長は、その天をじっと見つめていた。次第に雨雲が切れ始め、雲間から光の筋が射している。

 雑木林の枝葉を激しく打っていた雨粒のも小さくなる。

 信長は深作を促し、木立から出た。

 

 普段は干上がった浅い谷だが、今の大雨で水溜りがそこかしこに出来ている。

 上から水が流れてきて、細い川筋も現れた。


 傭兵部隊は、この坂道を駆け上がる。信長の胸を一抹の不安が曇らせる。

 すると、蜂須賀小六はちすかころくが悠然とやって来た。


「また草鞋ぞうり藁縄わらなわ、巻かなきゃならねぇな」

 

 滑り止めとしてだった。小六は信長と深作に、乾いた藁縄を差し出した。小六自身の足元は、既に藁が巻かれている。


「用意がいいな」

 

 信長は頬をゆるめ、ありがたく受け取った。

 また、小六は馬には人髪で編んだ馬草鞋を装着させ、ひづめの音をさせないようにもしてくれた。

 そして、いよいよ敵地に踏み込むとなれば、馬の舌を布で縛り、馬の口に噛ませる金具のくつわ、手綱を装着する金具にも布を巻けと言い出した。


  いななかせない用心と、金属のを抑える為の支度らしい。


「そのように致せ」

 

 深作は側近の市松に、急ぎ支度するように指示を出す。

 

 雨鉄砲の工夫といい、彼等はいかに生き延びるかに腐心ふしんして、智恵と工夫を凝らしている。

 信長も此度の戦で小六から、どれほど多くの備えの知恵を授かったか、計り知れない思いがした。


「そなたはよく、ここまでついて来てくれたものだ」

 

 信長の口から感傷めいた言葉が出た。

 言ってしまった直後には、柄にもなく口を滑らせたと信長は、決まり悪げに眉根を寄せる。現に小六も深作も、目を丸くして自分を見た。

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