第六話

「三万を超える我等連合軍に、三千の歩兵で野戦に出るなどあり得ませぬ。善照寺砦に到着すれば、織田軍は砦に立て籠もり、清須から出陣したという形だけでも見せようと、目論んでおるのでしょう。明らかな捨て戦に、家臣はついて参りませぬ」

 

 形だけでも出陣し、体裁を整えてから降伏する。通常ならば、それがいちばん妥当だろう。

 当世、すべてにおいて数と力がものを言う。

 数で劣った者達が、さる者に帰服するのは尋常一様じんじょういちよう

 血筋を残し、生き延びる為の手段なのだ。


 それでもまだ、どうしても腑に落ちずにいる元康と、勝った気でいる重治のもとに使番がやって来た。


「殿」

 

 櫓の階段を上り切り、使番は元康に近づいた。そして短く耳打ちされるなり、元康の顔が一変した。

 これ以上ないほど目を見張り、まろぶように物見櫓の階段口まで駆け寄った。

 その階段口から現れたのは、百姓のように薄汚い なりをした華奢な少年。 

 だが、身形とは裏腹に面立ちは端正だ。


 少年でもあり少女でもあるような見目麗しい彼の右目は、死んだ魚のように濁っている。


「待ちかねたぞ! いったい今の今まで、どこで何をしておった!」

「申し訳ござりませぬ」


 いつになく癇癪かんしゃくを起こす主君を前に膝を折り、少年は堅い顔で謝罪した。


「重治」

「はい」

「そなたは下がれ。追って沙汰さたを申しつける」

 

 元康は使番はおろか、側近中の側近の自分までをも人払いしようとする。

 この怪しげな少年と二人きりになろうとする。

 重治は蚊帳の外に追い払われて不満を顔に顕わにした。


 それでも主君の命には逆らえない。

 重治が渋々物見櫓の階段を下りたところを見計らい、元康はもう一度恨み節を口にした。


「重治が鳴海城への後詰めに失敗しても、大高の南砦が焼失しても、そなたからは何の沙汰も届かない。どこぞで首でも斬られていたかと思ったぞ」


「御心痛おかけ致しました旨、誠に申し訳なく存じます。信長の動きが読めませず、確かな事は今日まで何もご申告できずにおりました」


「それで、織田の 本懐ほんかいは?」

「信長は善照寺砦に立て籠もると見せかけて、善照寺砦の正面にあたる桶狭間山に陣を張る、今川方の前軍に、奇襲をかける心づもりでございます」


「……見せかける、だと?」

「信長は、織田家譜代の武将とはまったく別の、金で集めた傭兵を有しておりまする。殿は、このあと桶狭間山まで赴かれ、丸根砦陥落を義元様にご報告申し上げた暁には、善照寺砦への備えとして、そのまま前軍に配備されることでしょう」

「……いかにも」

 

 元康は重々しく頷いた。


 桶狭間山の山頂は、龍の背のように細長い。

 東の沓掛城くつかけじょうから出立し、北の鳴海城へと、桶狭間山のいただきを移動する今川の三万越えの軍勢も、峰に沿って縦長になる。


 従って、義元のいる中軍を直に狙って奇襲はできない。


 そうともなれば、鳥が羽をたたむように、前軍と 殿軍しんがりの挟み撃ちに合うだけだ。


 背後に鳴海城を有する善照寺砦に、織田が陣を敷くのなら、鳴海を目指して北上している今川方の前軍を、正面突破で狙い定めて来るだろう。


 その恐れがもっとも高い前軍を命じられるのは、属国の三河の軍勢だ。

 かといって、丸根砦陥落の報に赴かなければ礼を欠く。

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