第四話

 深作の屋敷の大広間には、戦支度を済ませた野武士で溢れていた。

 広間に上り切らない者は庭を埋めた。


 どの兵も大広間の上段の間に立った信長に視線を注ぎ、息を凝らし、どんな訓辞で士気を鼓舞しようとするのかを見守った。


「先駆けには鉄砲隊、鉄砲隊を援護するのは弓部隊。鉄砲と矢で敵が怯めば槍と騎馬で突入する。だが万が一、我が軍勢劣勢なれば、速やかに引け。無駄死にはするな。戦に勝ちぬれば、この場に乗った者は皆、己の面目、末代の高名たるべし。ただ励め」

 

 信長は言うだけ言って速やかに上段の間から板間に下りた。

 訓辞を聞いて、兵が一瞬どよめいたのは、『劣勢ならば速やかに引け』の一言だ。

 通常ならば大将は、生き恥を晒すより死して高名を立てるべしと、兵卒達の退路を断つ。それなのに信長は、自分の為に無駄死にするなと宣言した。


 勝敗よりも、兵卒の安否を優先させる大将に、誰もが息を飲んでいた。


 信長は大広間を出て、縁側を歩き出す。

 すると、縁に面した庭先から、藤吉郎が飛び出して来て不安げに呼び止める。



「殿、藤吉郎めは……」

 

 藤吉郎は鉄砲も矢も弓も馬も使えない。

 刀も言わずもがなの腕だった。

 その為、自分はどの隊に属せばいいのか、わからない。


「お前は善照寺砦ぜんしょうじとりでで待機しろ。もし、何か異変があれば報せに来い」

「殿……っ」

 

 善照寺砦は、現在義元が陣を敷く沓掛城くつかけじょうに対して築かれた。

 丸根と鷲津が、大高城と鳴海城間の街道を塞ぐ砦だとするならば、沓掛城と清州城の間は善照寺砦で塞いでいる。


 その善照寺砦に残れと命じられ、藤吉郎はいきり立つ。この期に及んで、いつものように留守居をしろと下知されたのだ。

 しかし、信長は気色ばむ藤吉郎を諌めるように語気を強める。


「武芸なき者は足出まといだ。置いて行く」

 

 取りつく島もないような紋切型の口振りに、藤吉郎は青ざめた。

 役に立たない足出まといと言われれば、返す言葉が見つからない。


 庭先で片膝を着いたまま、己の不甲斐のなさに悔し涙を滲ませた。だが、縁側の縁にまで足を進めた信長が、苦笑混じりの声で言う。


「そなたの不器用が初めて役に立ったな」と。

「殿……」

 

 藤吉郎は項垂れていた頭をもたげる。目と目が合った信長は、何の役にも立たない小者を愛おしむように笑んでいた。


「藤吉郎。そなたは命冥加いのちみょうがせよ」

 

 自分なんぞの為に無駄死にするなと言い残し、踵を返した信長は、藤吉郎を振り向かなかった。

 だから、自分の訓辞を藤吉郎がどのように受け止めたのかは、わからない。


 ただ、伝えるべき事は伝えた気がした。

 そして奴には『それ』が通じる事も、わかっていた。


 その実感だけを胸に秘め、足早に縁を立ち去った。


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