第三話

 深作の屋敷は出陣の身支度にいそしむ男達の熱気で、蒸されたようになっている。

 信長も奥座敷の居間で一人、自分で具足を付けていた。


 袖が筒になった上衣に、裾が締まった裁付袴たっつけばかまと、皮製の足袋を履く。

 すぼまった袴のすそ脚絆きゃはんを巻き、戦の身支度の作法を守り、左足から脛当すねあてを取りつけた。


 あとは左手から籠手を装着し、胴丸を付け、額に鉢金を縛り、二重に巻いた帯に腰刀を差し入れる。

 信長が帯刀し終えた頃合いに、深作が信長の居間を訪れた。


「御仕度は整いましてございまするか?」

「済んだ」

 

 信長は涼しい顔で返事をした。しかし、深作は面食らったように瞠目する。


「ですが……、それではあまりに身軽な御仕度では」

 

 信長の胴丸には草摺くさずりもなく、喉や肩を防御する喉輪も大袖も付けていなかった。これで兜も被らないと言うのだから、まるで足軽のようだった。


 装いだけなら当世具足を装備した、深作の方が大将然として見える。


 深作は、その軽装では信長の総大将としての威厳に欠け、兵の士気をいだりしないか危惧きぐをした。

 言葉でも暗に仄めかしたつもりでいたのだが、「俺にはこれで充分だ」と、にべもない。


「それよりも深作殿」

 

 顔を上げた信長が改まった声を出した。


 深作はすぐに座敷に入って後ろ手に襖を閉め、信長の足元に膝をつく。信長の顔と声音で、何か重要な指示を下そうとしている事を理解した。畏まってこうべを垂れて、下知を待つ。

 

 けれど、信長は黙っている。


 言いたくても言い出せないのか。

 それとも口にしたくない事を、言わねばならないかのような、何かしらの葛藤が、信長の胸の内で渦巻いて、言葉にならないといった沈黙が、深作の肌をちりちりと炙り焼く。


「深作殿」

 

 喉に綿を詰めたような苦しい声で、くり返される。

 深作は、信長の皮足袋の爪先に視線を据えて、待ち続けた。


「突入の際、隊を先鋒と後衛こうえいの二手に分ける」

 

 意を決したように信長は 、ひと息に言い切った。


「……と、申しますと?」

 

 深作は拍子抜けして顔を上げた。決戦の場で兵力を二手に分ける。それはどの隊の将でも用いるような常套手段じょうとうしゅだんだ。

 それをあえて告げるのに、なぜ躊躇する必要があったのか。

 深作にはむしろ、そちらの理由が気になった。


 深作が食い入るように見つめると、信長はやましい事でもあるように目を逸らし、やがてぽつりと言い足した。


「ただし、静にだけは悟られるな」

「……えっ?」

「出陣は、全隊員一丸となって行うが、隊を途中で先鋒と後衛の二手に分ける。先鋒の将は俺だ。深作殿は後衛隊の将を頼みたい」


「畏まって仕りまする。ですが……」

「くり返し言うが、隊を二手に分けた事。決して静には気取られるな」

 

 深作は後衛隊の将を命じられた。それはすぐに腑に落ちた。

 けれど、静に秘匿ひとくして進めなければならない事情がわからない。


 深作の目には、静は信長の深い信頼を得ているように映っていた。


 その静を敵だとみなしたかのように、信長の横顔は悲壮なまでに強張って、深作は追及の言を発する事もできずにいた。

 空の一点を見つめる眼差しは、どこか虚ろだ。

 信長の唇には、微かな震えが見て取れた。


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