第十六話

 一五六十年五月十九日。

 

 丸根砦には元康が、鷲津砦には今川の前軍が、未明より襲撃を開始した。

 清須城には援軍要請が次々に届けられ、寝所で休む信長にも、小姓が走り、注進した。

 

 清須城は昨夜から、城内のそこかしこに篝火が焚きつけられ、城が炎上したかのようだった。

 譜代の家臣も徴兵された雑兵も具足を取りつけ、槍や鉄砲の武器を整え、馬にたっぷりの飼葉を与えるなどして出陣に備え、信長の下知を待っている。

 

 その馬のいななきに、微かにつつみの音が混じり出し、気がついた軍兵は周囲に顔をめぐらせた。


 いよいよ決戦の火蓋が切られようという時に、どこの誰が鼓を打ち、うたいに興じているのだろう。

 

 寝所で一人の小姓に鼓を打たせ、謡っていたのは信長だ。


 元康が丸根砦に進軍したと聞くやいなや、寝所のしとねから跳ね起きた。

 信長は、進言に来た小姓に鼓を持たせると、純白の寝着のまま、扇を開いて『敦盛あつもり』を謡い舞う。

 朗々とした低音に添い、小姓は鼓を響かせた。

 

 人間五十年にんげんごじうねん

 下天げてんの内をくらぶれば、夢幻ゆめまぼろしのごとくなり。

 一度ひとたびしょうけ、滅せぬもののあるべきか。


 滅せぬもののあるべきか。

 

 謡いながら、信長は自分は二十六年生きただけだと思っていた。残りの二十五年を生きたとしても、同じように何もかも、夢幻のごとくに消えたと思うに違いない。


 自分は自分というものの生を生き、その生にふさわしい死を死ぬのだろう。

 

 謡い終え、鼓の音が止むと同時に信長は扇を投げ捨てる。


かいを吹け! 具足を寄越せ!」

 

 信長の怒号を聞きつけた成光と小姓等が、早足に具足を寝所に運び込む。

 成光も小姓等もいではいたが、焦ってはいなかった。

 

 城内には、出陣を告げるかいが、びょうびょうと吹き鳴らされ、軍兵達の咆哮ほうこうも、地鳴りのように湧き起こる。

 兵の士気も頂点に達し、具足をつけた家臣団も急ぎ、表御殿の大広間まで駆けつける。

 と、そこへ当世具足を身にまとい、いっぱしの大将然とした信長が刀持ちの小姓を伴い、現れた。

 おもだった家臣が一同に顔を揃えた大広間にどよめきが起こり、上段の間で仁王立ちする君主の男振りに、しばし見惚れる者もいた。


 目庇まびさしの長い、黒漆塗りのかぶとには、三日月型の金の前立て。

 朱漆塗の面頬めんほおで鼻から下を覆い隠し、顎の下で兜を縛る組み紐は、目にも眩しい色鮮やかな金色だ。

 あとは黒一色の喉輪のどわや大袖、籠手や胴、草摺くさずりに脛当てと、漆黒に朱色と金で僅かに色を添えた装いだ。

 

 鮮烈な甲冑姿と圧倒的な存在感とで、家臣を一目で魅了した。

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