第十二話

「三万の敵勢が迫ってるのに、御殿様は優雅に一人で月見風呂か?」

 

 正面から、川原の砂利を踏む音をさせながらやって来て、静がせせら笑ってからかった。さっきから視界に入っていたものの、信長は静を黙殺する。

 己の来し方を懐かしむ、この厳粛なひと時ですら茶化され、怒りを顕わにする。


 静は信長に断りもせずに着物を脱ぎ、自分もさっさと湯に浸かる。

 どこまでも厚かましい奴だった。

 にも関わらず、他の家臣のように叱り飛ばし、追い出したいと思うほど、激烈に腹が立ったりしなかった。


「あんた、本気で明日。出陣するつもり気でいるのか?」

 

 静は自分の肩に湯を掛けながら、世間話でもするように聞いてきた。信長は口をつぐんで答えない。そんな義理はないからだ。


「あんた、本当にまともじゃねえよ。普通じゃない。まともな奴なら和睦わぼくするか、清須城に籠城して、義元が上洛じょうらくするのを見送るか、三河みたいに属国になるかで手を打つさ。それが普通の人間のやる事だ」

 

 人を 虚仮こけにしておいて、静は心地良さ気に溜息を吐く。


「俺みたいな淫売は、臭いものでも嗅がされたみたいな顔をされるか、いたぶってやろうと、目ぇギラギラさせてる奴かのどちらかなのに、あんたは違う。あんたはきっと、俺が殿様だろうと淫売だろうと、同じ目をして俺を見る。そんな気がして怖くなる」

 

 信長は思わず静を見た。声色が変わった気がしたからだった。

 泣き出しかねない声だった。それなのに、顔を見たら笑っていた。

 顎を引き、いつものように人を小馬鹿にしたような微笑みを唇にだけ貼りつかせている横顔だ。


 信長は気の利いた言葉が浮かばずに、静の顔から目を逸らす。

 そんな風に、静の中に自分が深く根づいている。信長はひどく驚き、ときめいた。


 静が立てた湯の波が、胸の辺りに届いては散る。静は自分の腿や膝、湯を揺らめかせる左右の腕を眺めていた。


「……だが、もし俺が普通だったなら、平手も死なずに済んだだろう」

「……平手?」

「平手は俺の傅役もりやくだ。俺がうつけになったのは、傅役の爺の養育がなっていないせいだと責める者もいたのだろう。七年前に自分の屋敷で、腹を斬って自害した」

 

 十九になったばかりの正月だ。

 織田家嫡男の蛮行ばんこうを、自らの死をもっていさめる遺書を読んだ衝撃は、今も薄れることなく残っている。

 明日、今川義元の三万の大軍勢に討って出ると話したら、爺はまた額に筋を浮かばせながら怒り狂うに違いない。


 無茶をするな。

  みなの話をちゃんと聞け。

 情勢を冷静に鑑みろ。

 口を開けば小言ばかりの爺だった。


 それでも自分はするのだろう。


 降伏もせず和睦もせずに討って出る。


 そうしてまた傅役としての面子めんつをつぶし、懊悩おうのうさせたに違いない。

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