第十一話

 真上にある満月が、冴えた光を放っている。


 村落の子供らの為に掘った川辺の岩風呂に、信長は一人で浸かっていた。

 月光を浴びた里山の杉林は青味がかり、凛と静まり返っている。


 聞こえているのは川のせせらぎ。

 湯の中で身じろぐたびに、微かに跳ねる湯の音だけ。信長は岩風呂を囲う石に頭を預けた。


 出陣を明日に控え、今夜のうちに清須城に戻る前に、最後に来たかった場所がここだった。


 かつてはここで子供らの歓声が上がっていた。

 どの顔も笑っていた。

 自分もその中の一人だった。


 もう随分、康介こうすけ達とも顔を合わせていないせいか、子供らの顔を一人一人思い出すたび懐かしく、胸が苦しくなってくる。そして、子らの顔に重なるように、幼名の竹千代だった頃の、福々しかった元康が、ちらついた。


 湧き上がる切なさを押し殺し、掌で肩に湯をかける。

 

 亡き父、信秀が人質に取っていた三河衆を、古渡城ふるわたりじょうに呼び出して、織田家の次男に花を持たせる、仕込み相撲の相手をさせた事もある。

 そんな余興相撲の大将戦で、竹千代はまなじりを決し、織田家の次男を土俵下に叩き落とした侍だ。


 また、兄の信広と竹千代の人質交換に異議を唱え、父に扇を投げつけられ、額を切った時もある。

 その手当にと、やって来た竹千代のいだ目が、忘れられずに残っている。

 

 自分の力で変えられないものは受け入れる。

 そうする事で竹千代は、三河国主の務めを見事に果たしていた。


『信長様にも 御暇請おいとまごいを』

 

 と、述べながら、額の傷におずおずと触れた指先が、丸々として柔らかい子供の感触だった事。その指先の微かな震えが蘇り、信長の胸を締めつける。

 家臣がどれほどいようとも、身内の肌には触れた事がないような、子供の孤独を指の震えが語っていた。

 

 竹千代は三歳で実母を亡くし、六歳で実父に人質として送り出され、見捨てられてしまっていた。


 それはまるで父も母も弟の勘十郎かんじゅうろうを溺愛し、歴とした跡継ぎでありながら、見向きもされなくなっていた、自分を見ているようだった。

 

 その竹千代が、最大で最強の敵となり、戻って来た。

 これも何の因果かと、信長は月を仰ぎ見た。


 

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